【雑記】「好きなことで食う」ということ
今日はこちらのブログ記事について。
この記事で「真崎さん」というライターの存在を初めて知り、同時に、彼女に対してジェラシーを覚えた。ジェラシーというと語弊があるかもしれないけれど、羨望というか焦燥というか、そんな感情を抱いた。
食えようが食えまいが関係ない。
「好き」は遠慮なく愛でてよ。
食えない「好き」を無価値にしないでよ。
あなたの大切な「好き」でしょう。
好きなだけで最強の価値でしょう。
人生を楽しくするのは「好き」の濃度でしょう。
(引用:「食えててすごいね」って言わないで)
そう声を大にして言い切れる彼女のことが、単純に格好いいなと思った。
私にも好きなことはある。
好きを突き詰めていきたいと思ったことだってある。
5歳の頃から習っていたピアノ。
大きなコンクールで賞を獲るなんてことはなかったけれど、「上手だね」と褒められれば嬉しくなり、何よりピアノを弾くことが好きだった。
高校2年生の進路調査の時期。
私はピアノの先生に「音大にいきたい」と告げた。
応援してもらえると思っていた。
けれど返ってきた言葉は厳しい言葉だった。
「四六時中ピアノのことを考える生活が始まるよ。
ピアノを弾くことが楽しくなくなる瞬間がくるかもしれないよ。
ピアノを弾くことが好きじゃなくなる瞬間がくるかもしれないよ。
今のままのほうが楽しい気持ちでいられるんじゃないかな。」
もちろん、スキルや才能がなかったということもあると思う。
けれどそんな技能的なことよりも、ピアノに対する好きという気持ちや、好きなことを人生の軸におくことに対する覚悟感がそもそも備わっていないことを、先生は見抜いていたんじゃないかと思う。
確かに、練習量も全然足りていなかったし。
私は簡単に、ピアノという好きを突き詰めることから逃げ出した。
そして昨年。
好きなことに時間もエネルギーも費やしたいと、前職を辞め転職をした。
退職を上司に伝えた際、収入が半減してしまうことに対して、「今の生活を捨ててでもそこに飛び込む覚悟があるのか」と心配の言葉をかけてくれた。
今度こそ、好きなことに対してまっすぐに向き合おう。
そう腹を括った、はずだったのに。
いざその世界に飛び込んでみると、私の好きの程度がなんだか小さく思えた。「好き」を生活の軸にした途端、それで成果を出せないことが「私の好きは、その程度だったんじゃないか」という疑問を持つようになった。
好きの大きさを比べるなんて野暮なことだと嘲笑されるかもしれないけれど、目をキラキラさせながら好きなことに向き合い、好きなことを通して価値を創造していく人たちを前にして、「私もこれが好きなんだ!」と胸を張って言えなくなってしまった。
(この人たちに比べたら私の好きなんて)
好きだと信じていたものが、崩れていく。
あれほど語ることが好きだったのに、語りあうことが怖くなった。
今の世界に飛び込んだことに後悔はしていないし、まだまだこれからだと意気込んではみるものの、もはやそれは「好き」からくるものではなくて、「あれだけ大見栄を張って飛び込んだのだから」という単なるプライドで縋りついているだけのようにも思える。
「食えててすごいね」
改めてこの言葉の意味を考える。
果たして真崎さんの上司は、「食えるからすごいね」という意味でこの言葉を言ったんだろうか。
ここからは完全に私の想像だけど。
誰だって、好きなことはいっぱいあったと思う。
小さい頃に夢中になったお絵描き、青春時代に読みふけった漫画、大学時代にサークル仲間と踊りまくったダンス。
その瞬間は、自分にとってとてつもなく大切で大好きなことだったはずだ。
けれど大人になっていくうちに、毎週買ってた漫画はいつの間にか読まなくなって、ダンスなんてしようものなら息切れ必至。
あれほど好きだったものが、どんどん消えていく。
ひとつの好きを持ち続けることって、誰にでもできるもんじゃない。
ましてや好きなことから価値を生み出すなんて、並大抵な思いじゃ無理だ。
好きを仕事にしている人たちって、私の中じゃトップアスリートと同等だ。
「食えるからすごいね」そういう意味で言ったんじゃない。
それが1円とか1億円とか、そういう金銭的な価値の話をしているんじゃなくて、「食えるところまで辿りつくまでに、まっすぐ好きなことと向き合い続けていてすごいね」そういう意味で言ったんじゃないのかな。
そこまで夢中になれる「好き」があっていいね。
羨ましいな。
私はいろんな「好き」を置いてきたから。
そんな思いが裏側にあったんじゃないかな。
だから、私はあえて言います。
「食えててすごいね」と。