【感想】『いのちの車窓から 』の「怒り」より(星野源) マイナス×マイナス=プラスの関係性
先日、星野源さんの『いのちの車窓から』というエッセイ本を購入した。
なんとなく一気に読んでしまうことが勿体なくて、“1日に5章まで”と決め、寝る前の睡眠導入剤としてゆっくりじっくり読み進めている。
そもそも、星野源という人物を良いなあと思うようになってからはまだ日が浅く、お察しの通り、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』がきっかけなのだが。
そこから彼の歌を聴くようになり、深夜のラジオ番組『星野源のオールナイトニッポン』を聴くようになり。
声が好きだなあ、とか。笑い方が好きだなあ、とか。着目点が好きだな、とか。
少しずつ少しずつ、星野源の魅力に虜になっていった。
そして今回、『いのちの車窓から』を読み始めたわけだが、しょっぱな「怒り」という題目のエッセイで「うん、やっぱりこの人好きだわ」と思わされた。
「怒り」では、星野源さんの音楽仲間であるハマ・ オカモトさん(okamoto's)とのエピソードが綴られているのだが、星野さん曰く、ハマ・オカモトさんは「なぜかいつも怒っている」のだという。
そしてその怒りを星野さんにぶつけてくるらしいのだ。
で、結局は星野さんもハマさんに対して日頃の怒りエピソードをぶつけ、お互いに怒りトークに花を咲かせるらしい。
そんな二人には暗黙のルールがあるようで、それが「とても良いな」と思った。
以下、引用。
そんな二人には暗黙のルールがある。
それは「ヘビーな怒りエピソードほど面白く、笑えるように」
話すことだ。
(引用:『いのちの車窓から』(星野源)21頁より)
さて、彼ら2人の“ヘビーな怒り”がどんなものなのかは、ぜひ本作を読んで欲しいのだが(私はお風呂でこのエピソードを読んで大声で笑いました)、「ヘビーな怒りエピソードほど面白く、笑えるように」という考え方は実に素敵だと思った。
さらにこのエッセイの最後。
その時、この世から一つの怒りが消えた。
( 引用:『いのちの車窓から』(星野源)24頁より)
そう締め括った彼の言葉選びや人柄に、また虜にさせられてしまったわけである。
ここからは私自身の話なのだが、私は、愚痴や不平不満 (いわゆる負の感情)ってやつを話す相手を選ぶようにしている。
身の回りにいないだろうか。
「この人に己の負の感情を一度でも見せると、どんどんその負が肥大化してしまう」という相手が。
そんな人には私は決して自身の負の感情を話したりしない。その人と別れた後に、一層落ち込んでいる(自己嫌悪に陥っている)姿が目に見えるから。
じゃあ、「己ひとりで負の感情に打ち勝つのか?」と聞かれれば、答えはNOだ。
負の感情を自分だけで消し去るってのは結構難しいことである。
だから結局は他人に頼ることになるわけだが、中にはいるのだ。
星野さんの言葉を借りれば、「その時、この世から一つの負の感情が消えた」と思わせてくれる相手が。
私にも何人かそんな相手がいるのだけれど、先日そのうちの一人と久々に会うことになった。
彼女は前職の同期なのだけれど、今はお互い違う環境にいて、会うのは半年ぶりだった。
なんとなく「あー、最近私落ちてんなあ」と思っていた時に、「なあ、元気にしてる?そろそろ会わへん?」と彼女の方から連絡があった。私は二つ返事で頷いた。
彼女は自分のお店を持っており多忙を極めていたから、会えるのは店のオープン前の2時間程度だった。
その2時間、私たちはひたすら話し続けた。
仕事のことから恋愛のことまで。愚痴や弱音を交えながら話し続けた。
私は、彼女には安心して自分の負をさらけ出すことができた。というのも彼女が最後には「ま、なんとかなるやろ!」と笑い飛ばしてくれることを知っているからだ。
そしてその日も、彼女はユニークな発想で私を救ってくれた。(彼女曰く、この言葉は彼女自身が他の誰かから向けられたものらしいのだが)
「最近、自分落ちてってるなあって思っては、へこむんよねえ」
そう弱音を吐いた私に。
「落ちたら後は芽を出すだけやん」
そう言ったのだ。
一瞬「?」の文字が頭に浮かぶ。
彼女は続けた。
「今まではさ、木の枝にユラユラぶら下がってた果実やったんよ。良いように見えるけど案外不安定な状態なやつね。その果実が一度熟しきって落下したんよ。で。落ちるとこまで落ちたら、後は根を張って、芽を出して、花を咲かせて、実をつけるだけ。この繰り返し。落下するから次の芽が生まれるんよ。やからさ、落ちて良かったやん」
なんともポジティブすぎる発想だ。
楽天的すぎる!
と、頭で小馬鹿にしながらも「確かに、私落ちて良かったやん。後は丁寧に水やってればいいのか!」なんて、前向きになっている自分がいた。
『いのちの車窓から』の「怒り」のエピソードを読んで、先日の友人との会話を通して、シンプルだけど思ったことがある。
(ー)+(ー)=(ー)
の関係よりも
(ー)×(ー)=(+)
の関係の方がずっといい。
そうそう、友人と別れた後にふと思ったことがある。
「そういえば私、昔から植物を育てるの苦手で花が咲く前に枯らしてたな」と。
※関連記事
【雑記】お洒落ぶってるんじゃない。ただ丁寧に暮らしているだけだ。
またまたインスパイアされたブログについて。
元々Instagramをフォローしていて、「素敵な写真ばかりだなあ」と、そのセンスに毎度うっとりさせられるMOMOKAさん(@nemuiasaa)のブログ。
以下、引用。
ひとりでやっていくには どうしたらいいか
健康的な精神を保つには どうしたらいいか
ひとり暮らしを始めてからというもの わたしにとって
それがいちばん大きな課題でした
1年生のときは 月曜〜土曜までみっちり毎日1・2限が必修
おまけに課題も大量で それをなんとかこなしつつ
じぶんが健康でいられる方法を探り探り やっと1年が経ち
なんとなく その方法がわかってきました
その方法が
" 丁寧に暮らす "
ということです
最近、なんだか不安定だった私。終いには、深夜2時に無性に叫びたくなって、母親に「がーーーーーっ!」と謎のLINEを送りつける始末。
休日。
朝起きて(正確には昼過ぎ)部屋を見渡してみた。
荒れている。
どれだけ荒れていたかというと。
以下閲覧注意。
3
2
1
※あまりにも酷いので、ぼかしを施しました。
元々片付け上手な方ではないけれど、ここまで荒れていることは滅多にない。もはや汚部屋だ。好きな人に見られようもんなら百年の恋もなんとやら、だ。
これじゃあ心も不安定になるわけだ。
「丁寧な暮らし」なんて程遠い。
というわけで、安直な考えだけれども、まずは部屋を整理整頓してみた。
「綺麗!」とまではいかないけれど、すっきりした。
部屋が明るくなった気がした。
不思議なことに、急に花を飾りたくなった。
花がある部屋ってオシャレぶってるみたいで、小っ恥ずかしい。
花を買うくらいなら、同じ値段で肉を買うわ。
そうよ、私は「花より団子」を選ぶ女よ。
そんな女だったはずだ。
それなのに。
土日は引き篭もってひたすら寝ようと決めていたはずなのに。
MOMOKAさんのブログに刺激を受けすぎたのか、気がつけば近所の青山フラワーマーケットへ向かっていた。
人生で初めて自分のために花を購入する。
友達にあげるわけでもなく、自分の部屋に飾るための花を。
スーパーで肉を購入する時よりも数十倍、浮き足立っている自分がいた。
そうして我が家へやってきたお花が、こちら。
ラベンダー。
水を頻繁にあげなくてもよい、なんとも初心者向けなお花だ。
くんくん、と鼻を近づけてみる。
ふわ〜っと香りが鼻をかすめる。
い、い、癒される〜!!!
これが花のある生活か!と感動を覚える。
さっきから10分に1度はラベンダーを一瞥してはニヤけている。
心が浮き足立って、その後、掃除洗濯、運動、仕事の残り、こうして1ヶ月ぶりのブログ書きと、なんだか揚々と取り組むことができた。なんて単純な奴なんだ。
またすぐ不安定な状態になるかもしれない。
けれど、なんとなく立て直し方を掴んだ気がする。
部屋のインテリアにこだわる、とか。
誰の為でもなく自分の為に花を飾る、とか。
独りなのにわざわざランチョンマットを敷いてご飯を食べる、とか。
オシャレぶりたい人がすることだと思っていた。
でもね、一回でいいからやってみて。
そういうのって、格好つけたいとかオシャレぶりたいとかそんなんじゃなくて、ただ丁寧に暮らしているだけなんだ。
取り繕うって、恥ずかしいことなんかじゃないんだ。
取り繕うって、心に余裕を持つ為にもきっと大切なことなんだ。
とはいえ、染みついた干物女生活から脱することはできないだろうけれど、時々こうやって「丁寧な暮らし」を繕ってみるのも大事だなと思った今日この頃でした。
ちなみに、After。
以上!
【雑記】「好きなことで食う」ということ
今日はこちらのブログ記事について。
この記事で「真崎さん」というライターの存在を初めて知り、同時に、彼女に対してジェラシーを覚えた。ジェラシーというと語弊があるかもしれないけれど、羨望というか焦燥というか、そんな感情を抱いた。
食えようが食えまいが関係ない。
「好き」は遠慮なく愛でてよ。
食えない「好き」を無価値にしないでよ。
あなたの大切な「好き」でしょう。
好きなだけで最強の価値でしょう。
人生を楽しくするのは「好き」の濃度でしょう。
(引用:「食えててすごいね」って言わないで)
そう声を大にして言い切れる彼女のことが、単純に格好いいなと思った。
私にも好きなことはある。
好きを突き詰めていきたいと思ったことだってある。
5歳の頃から習っていたピアノ。
大きなコンクールで賞を獲るなんてことはなかったけれど、「上手だね」と褒められれば嬉しくなり、何よりピアノを弾くことが好きだった。
高校2年生の進路調査の時期。
私はピアノの先生に「音大にいきたい」と告げた。
応援してもらえると思っていた。
けれど返ってきた言葉は厳しい言葉だった。
「四六時中ピアノのことを考える生活が始まるよ。
ピアノを弾くことが楽しくなくなる瞬間がくるかもしれないよ。
ピアノを弾くことが好きじゃなくなる瞬間がくるかもしれないよ。
今のままのほうが楽しい気持ちでいられるんじゃないかな。」
もちろん、スキルや才能がなかったということもあると思う。
けれどそんな技能的なことよりも、ピアノに対する好きという気持ちや、好きなことを人生の軸におくことに対する覚悟感がそもそも備わっていないことを、先生は見抜いていたんじゃないかと思う。
確かに、練習量も全然足りていなかったし。
私は簡単に、ピアノという好きを突き詰めることから逃げ出した。
そして昨年。
好きなことに時間もエネルギーも費やしたいと、前職を辞め転職をした。
退職を上司に伝えた際、収入が半減してしまうことに対して、「今の生活を捨ててでもそこに飛び込む覚悟があるのか」と心配の言葉をかけてくれた。
今度こそ、好きなことに対してまっすぐに向き合おう。
そう腹を括った、はずだったのに。
いざその世界に飛び込んでみると、私の好きの程度がなんだか小さく思えた。「好き」を生活の軸にした途端、それで成果を出せないことが「私の好きは、その程度だったんじゃないか」という疑問を持つようになった。
好きの大きさを比べるなんて野暮なことだと嘲笑されるかもしれないけれど、目をキラキラさせながら好きなことに向き合い、好きなことを通して価値を創造していく人たちを前にして、「私もこれが好きなんだ!」と胸を張って言えなくなってしまった。
(この人たちに比べたら私の好きなんて)
好きだと信じていたものが、崩れていく。
あれほど語ることが好きだったのに、語りあうことが怖くなった。
今の世界に飛び込んだことに後悔はしていないし、まだまだこれからだと意気込んではみるものの、もはやそれは「好き」からくるものではなくて、「あれだけ大見栄を張って飛び込んだのだから」という単なるプライドで縋りついているだけのようにも思える。
「食えててすごいね」
改めてこの言葉の意味を考える。
果たして真崎さんの上司は、「食えるからすごいね」という意味でこの言葉を言ったんだろうか。
ここからは完全に私の想像だけど。
誰だって、好きなことはいっぱいあったと思う。
小さい頃に夢中になったお絵描き、青春時代に読みふけった漫画、大学時代にサークル仲間と踊りまくったダンス。
その瞬間は、自分にとってとてつもなく大切で大好きなことだったはずだ。
けれど大人になっていくうちに、毎週買ってた漫画はいつの間にか読まなくなって、ダンスなんてしようものなら息切れ必至。
あれほど好きだったものが、どんどん消えていく。
ひとつの好きを持ち続けることって、誰にでもできるもんじゃない。
ましてや好きなことから価値を生み出すなんて、並大抵な思いじゃ無理だ。
好きを仕事にしている人たちって、私の中じゃトップアスリートと同等だ。
「食えるからすごいね」そういう意味で言ったんじゃない。
それが1円とか1億円とか、そういう金銭的な価値の話をしているんじゃなくて、「食えるところまで辿りつくまでに、まっすぐ好きなことと向き合い続けていてすごいね」そういう意味で言ったんじゃないのかな。
そこまで夢中になれる「好き」があっていいね。
羨ましいな。
私はいろんな「好き」を置いてきたから。
そんな思いが裏側にあったんじゃないかな。
だから、私はあえて言います。
「食えててすごいね」と。
【感想】『阿弥陀堂だより』肩の力を抜いて自然と生きるということ
約2ヶ月ぶりのブログ更新です。気を抜くとすぐに怠けてしまうのでダメですね。
アクセス数も減ってるだろうなあと思っていたところ、むしろ増えていて驚いています。こちらの記事を読んでくれている人がとても増えているみたいで。 ありがとうございます。
ということで、復帰(?)第一回目の投稿は小説の感想にします。
さて私、3月末で地元から東京へ上京してきて8年目を迎えます。
7年が過ぎた今でも、東京は本当に刺激的な場所だと思います。
遊ぶところはたくさんあるし、面白い人もたくさんいる。お洒落なカフェや流行の最先端をいくお店、毎週のようにどこかで行われているイベント。
飽きることなく過ごすことができる場所ですよね。
でもいつからでしょう。ゆっくりと歩く前の人が邪魔だと思うようになったのは。我武者羅に頑張っていないことが格好悪いことのように思うようになったのは。時間に追われ、いつも何者かであろうとしている気がします。
東京という街のせいではないかもしれませんが、東京という街にいるからこそ、色濃く感じてしまうのだとも思います。
こんなこと書くと「疲れてるの?」と言われそうですが、もしかすると東京での生活にちょっぴり疲れてきているのかもしれません(笑)だからこそ、今から紹介するこの小説がグッと心にきたのだと思います。
実はこの作品、高校生のときにも一度、父に薦められ読んでいるのですが、その時は全く面白くなかったんです。なので、「今が最高!イェーイ!」という人よりも「最近疲れてるなあ」「そもそも頑張るってなんだっけ?」なんて、思いがちの人にぜひ読んでみてほしいですね。
阿弥陀堂だより
あらすじ
作家としての行き詰まりを感じていた孝夫は、医者である妻・美智子が心の病を得たのを機に、故郷の信州へ戻ることにした。山里の美しい村でふたりが出会ったのは、村人の霊を祀る「阿弥陀堂」に暮らす老婆、難病とたたかいながら明るく生きる娘。静かな時の流れと豊かな自然のなかでふたりが見つけたものとは……。(文藝春秋BOOKSより)
妻・美智子は、癌の専門医として最先端の医療を担うエリート女医だったのですが、不妊のすえにようやく授かった子供が子宮内死亡した頃から、心のバランスを崩してしまいます。
夜は眠れず睡眠薬を飲む毎日。人通りの多い場所へ行くと動機が激しくなり立っていることもままならない。通勤さえもできなくなります。
そんな妻に診断された症状が「恐慌性障害(パニック・ディスオーダー)」でした。発症してから最初の数年は東京でなんとか症状を治めようと様子をみるのですが、一向に良くならず。
夫婦は、夫が大学生になる前まで過ごしていた田舎へ移り住むことを決意します。
そこで出会った自然、文化、人々。ゆっくりと流れる時間の中に身を置くことで、妻の症状も回復の兆しをみせ・・・。
というあらすじなのですが。これといって強弱があるわけでもなく。衝撃的な出来事が起こるわけでもなく。ゆっくりと話は進んでいきます。けれど、じんわりと確かに。心の中に大事なものがひとつひとつ積み重なっていく。そんな一冊です。
おうめ婆さんのお言葉
本作の登場人物として欠かせない存在が、阿弥陀堂に暮らす阿弥陀堂守のおうめさんです。齢96を重ねたお婆さま。食べるものは庭の畑で自給自足をし、用を足すにも畑に穴を掘って行うという、まさに自然とともに生きるおうめ婆さんなのですが。このおうめ婆さんの言葉にとても癒されるのです。スッと肩の力が抜けるのです。一部紹介しますね。
目先のことにとらわれるなと世間では言われていますが、春になればナス、インゲン、キュウリなど、次から次への苗を植え、水をやり、そういうふうに目先のことばかり考えていたら知らぬ間に九十六歳になっていました。目先しか見えなかったので、よそ見をして心配事を増やさなかったのがよかったのでしょうか。それが長寿のひけつかも知れません。
(出典:文庫版P96-97)
九十六年の人生の中では体の具合の悪いときもありました。そんなときはなるようにしかならないと考えていましたので、気を病んだりはしませんでした。なるようになる。なるようにしかならない。そう思っていればなるようになります。
(出典:文庫版P144)
「将来どうなりたいのか。そのために今何をしなければならないのか。」社会人になりたてのころ何度も問われました。そのたびに、目標がないことに焦りを覚えたり、目標に近づけていないことに嫌気がさしたり。どっと疲れてしまうこともしばしばありました。でも最近、(ちょっとニュアンスは違うかもしれませんが)おうめ婆さんが言うように、目先のことにコツコツ向き合っていれば、知らない間に良い方向に進んでいることもあるんじゃないかと思うようになりました。どうですかね?甘いですかね?
まあ、人生。なるようになる。なるようにしかならない。たまにはそんな風に肩の力を抜いて一息つくのも大事だと思うのです。
映画版で癒し効果倍増
「阿弥陀堂だより」ですが、映画化もされております。
映像化されることで自然の美しさが際立ち、とても素敵に仕上がっています。なんといっても、おうめ婆さんを演じる北林谷栄さん(この作品で初めて知りましたが)の演技がなんとも自然で。これは演技?え?現地の人を使ってるの?と勘違いするほどでした。原作同様、とても静かな作品ですが、何度も涙を流してしまいました。ぜひご覧ください。
【漫画】『りぼん』60周年イベントが熱い!懐かしさに心打たれる私の漫画雑誌歴(90年代生まれ向け)
週末のおでかけに何処か良いところないかなあとネットサーフィンをしていたところ、とても胸が熱くなるイベントをみつけました。その名も『250万乙女のときめき回路 at TOKYO SKYTREE』。
どうやら、少女漫画雑誌『りぼん』と東京スカイツリーが、『りぼん』創刊60周年イベントとしてコラボレーションした企画のようです。そして、コラボレーションの中心となるのは、80年代〜90年代にかけて『りぼん』で連載されていた作品達らしいのです。
『ママレードボーイ』に『ハンサムな彼女』。『こどものおもちゃ』に『赤ずきんチャチャ』。『ときめきトゥナイト』に『グッドモーニングコール』。
世代ど真ん中ではないかっ!!!!
公開されている一部の写真を見るだけでも、懐かしさで胸が熱くなります。もちろん、今でもコミック本として手元に置いている作品はいくつかあるのですが、漫画雑誌でリアルタイムで読んでいた頃の思い出というのは特別ですよね。
上記のイベントですが、2017年1月9日〜2017年3月31日の期間中で開催されているようなので、近いうちに行ってみようと思います。展望台にあがる料金も含まれるので、ちょっとばかりお値段が張るのですが・・・。
実際に行ってみたらここに書き留めるとして、今回は、私自身の漫画雑誌歴をたどってみようと思います。ちなみに私、90年代初頭生まれですので、同年代の方には懐かしいけれども、その他の方には「?」が並ぶ内容かもしれません。
(目次)
- わたしと漫画雑誌
- わたしの漫画雑誌変遷まとめ
- はじめての『なかよし』
- 「りぼ〜んり〜ぼん」と「ちゃちゃちゃちゃちゃちゃーお」時代
- ちょっぴり大人に?『別冊マーガレット』
- そしてコミック派へ
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【モーニング娘。】祝!『モーニングみそ汁』企画。「モーニングコーヒー」にみる2つの解釈
marukomeさんとモーニング娘。'17のコラボ企画が発表されました!その名も『モーニングみそ汁』。モーニングコーヒでもなく、モーニングカレーでもなく。モーニングみそ汁でございます。いやあ、嬉しいですねえ。モーニング娘。'17が注目される機会が増えるって本当に嬉しいです。
(出典:Woman Insight )
発売は3月下旬ということでもう少し先のことですが、応援の意も込めて、発売日までに間に合うよう「モーニングみそ汁」の具材になりきった各メンバーのイラストを製作中でございます。完成したらこのブログにも載せようと思います。
さて、今回の「モーニングみそ汁」ですが、モーニング娘。のメジャーデビュー曲「モーニングコーヒー」をリメイクした楽曲も同時に発表されましたね。「モーニングみそ汁飲もうよ〜」とみそ汁をフーフーする振り付けは、一見可愛らしいですが、何度も見ていると、なんともシュールに思えてくるわけで・・・。(笑)
今回はそんな「モーニングみそ汁」の元となる曲で、モーニング娘。のファンにとっては大事な一曲である「モーニングコーヒー」について書こうと思います。
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【小説感想】『世界から猫が消えたなら』大切だと思えることって結局そんなにない。
先日、プチ失恋をした。毎日連絡を取り合っていた人で「好きかもしれないなあ」と思い始めていた矢先に「彼女ができた」と報告されたのだ。全く傷ついていない自分がいた。そもそも本当に好きだったのかさえ怪しいところだ。
そういえば初めて付き合った恋人から別れを切り出された時も、開放感さえ感じはしたが、寂しさや虚無感を抱くことはなかった。私をよく知る友人にも「まあ落ち込む質ではないよね」と言われたほどだ。
幼い頃から10年以上続けていたピアノや習字といった習い事も東京に上京するのと合わせてあっさりと辞めた。
「失ってはじめて、その存在が大切だったことに気づく」とよく言うが、私にしてみれば、「失ってはじめて、実はそこまで大切ではなかったことに気づく」という方が圧倒的に多いように思う。
だから時々、虚しくなる。「好きだなあ」と思えるものに対峙している時に、「でもこれが無くなったところで、私は特になんとも思わないんだろうなあ」とふと思うことがある。そうなると「私は本当にこれが好き(大切)なのだろうか」と疑問を抱かざるをえない。なんとも、虚しい。
それでも最近では「まあ、何かにそんなに執着し続けないのが私か」と割り切っている節がある。というのもの、その存在自体が自分にとってそれほど大切でなかったとしても、その存在に向き合っていた時間や、その時間があったからこそ残る思い出は、きっと大切なものであるはずだと思えるようになったからだ。
お正月に家族が集まれば、「(亡くなった)婆ちゃん、あんたが弾くピアノの曲の中で、どんな難しい曲よりも、なぜか“ ネコ踏んじゃった ”のジャズver.が好きやったよねえ」と思い出話しに花が咲く。ピアノという存在が与えてくれた、私にとって大切な思い出だ。
確かに、「これがないと生きていけない!!」と公言できるだけの存在(物でも人でも)があるということは、今でも羨ましいし憧れを抱いている。けれどまあ、そんな存在に出会うことなんて滅多にないだろう。だから私は、その存在が与えてくれた経験や思い出だけは「大切なものなんだ」と否定せずにいようと思う。
さて、こんなことを突然書いたのは以下の作品を読んだから。
『世界から猫が消えたなら』(著:川村元気)
映画化(佐藤健主演)もされているベストセラーなので、もはや周知の人も多いかと思いますが、簡単にあらすじを以下引用。
これは余命わずかの僕と僕が生きるために消してしまった「かけがえないもの」の物語。
主人公は30歳の郵便配達員。愛猫キャベツとふたりぐらし。
母を病気で亡くしてから、実家の父とは疎遠になってしまいました。
恋人はいません。別れてしまった彼女のことを、まだ想い続けています。
趣味は映画観賞。友だちは映画マニアの親友が一人だけ。
そんな彼が、ある日突然、余命わずかの宣告を受けてしまいます。
脳に悪性の腫瘍ができていたのです。
ショックで呆然とする彼の前に、とつぜん、自分と同じ姿をした悪魔が現れて言いました。
「世界から何かひとつ、ものを消すことで、1日の命をあげよう」…。
悪魔のささやきに乗せられた主人公は、次々とものを消していきます。
電話、映画、時計、そして、猫。
ところが、何かを消すと、大切な人たちとの思い出も一緒に消えてしまうことになり…。(引用:Amazon)
文章が簡潔で淡々としており、テーマも非常にわかりやすいので、とにかく読みやすい。絵本感覚で読めるまさにエンターテインメント作品だと思う。気になる方は、自分にとっての大切な存在を思い浮かべながら、ぜひご一読を。
以上!
※川村元気さん別著書については以下。
※映画も観てみようかなあ。