【感想】『いのちの車窓から 』の「怒り」より(星野源) マイナス×マイナス=プラスの関係性
先日、星野源さんの『いのちの車窓から』というエッセイ本を購入した。
なんとなく一気に読んでしまうことが勿体なくて、“1日に5章まで”と決め、寝る前の睡眠導入剤としてゆっくりじっくり読み進めている。
そもそも、星野源という人物を良いなあと思うようになってからはまだ日が浅く、お察しの通り、ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』がきっかけなのだが。
そこから彼の歌を聴くようになり、深夜のラジオ番組『星野源のオールナイトニッポン』を聴くようになり。
声が好きだなあ、とか。笑い方が好きだなあ、とか。着目点が好きだな、とか。
少しずつ少しずつ、星野源の魅力に虜になっていった。
そして今回、『いのちの車窓から』を読み始めたわけだが、しょっぱな「怒り」という題目のエッセイで「うん、やっぱりこの人好きだわ」と思わされた。
「怒り」では、星野源さんの音楽仲間であるハマ・ オカモトさん(okamoto's)とのエピソードが綴られているのだが、星野さん曰く、ハマ・オカモトさんは「なぜかいつも怒っている」のだという。
そしてその怒りを星野さんにぶつけてくるらしいのだ。
で、結局は星野さんもハマさんに対して日頃の怒りエピソードをぶつけ、お互いに怒りトークに花を咲かせるらしい。
そんな二人には暗黙のルールがあるようで、それが「とても良いな」と思った。
以下、引用。
そんな二人には暗黙のルールがある。
それは「ヘビーな怒りエピソードほど面白く、笑えるように」
話すことだ。
(引用:『いのちの車窓から』(星野源)21頁より)
さて、彼ら2人の“ヘビーな怒り”がどんなものなのかは、ぜひ本作を読んで欲しいのだが(私はお風呂でこのエピソードを読んで大声で笑いました)、「ヘビーな怒りエピソードほど面白く、笑えるように」という考え方は実に素敵だと思った。
さらにこのエッセイの最後。
その時、この世から一つの怒りが消えた。
( 引用:『いのちの車窓から』(星野源)24頁より)
そう締め括った彼の言葉選びや人柄に、また虜にさせられてしまったわけである。
ここからは私自身の話なのだが、私は、愚痴や不平不満 (いわゆる負の感情)ってやつを話す相手を選ぶようにしている。
身の回りにいないだろうか。
「この人に己の負の感情を一度でも見せると、どんどんその負が肥大化してしまう」という相手が。
そんな人には私は決して自身の負の感情を話したりしない。その人と別れた後に、一層落ち込んでいる(自己嫌悪に陥っている)姿が目に見えるから。
じゃあ、「己ひとりで負の感情に打ち勝つのか?」と聞かれれば、答えはNOだ。
負の感情を自分だけで消し去るってのは結構難しいことである。
だから結局は他人に頼ることになるわけだが、中にはいるのだ。
星野さんの言葉を借りれば、「その時、この世から一つの負の感情が消えた」と思わせてくれる相手が。
私にも何人かそんな相手がいるのだけれど、先日そのうちの一人と久々に会うことになった。
彼女は前職の同期なのだけれど、今はお互い違う環境にいて、会うのは半年ぶりだった。
なんとなく「あー、最近私落ちてんなあ」と思っていた時に、「なあ、元気にしてる?そろそろ会わへん?」と彼女の方から連絡があった。私は二つ返事で頷いた。
彼女は自分のお店を持っており多忙を極めていたから、会えるのは店のオープン前の2時間程度だった。
その2時間、私たちはひたすら話し続けた。
仕事のことから恋愛のことまで。愚痴や弱音を交えながら話し続けた。
私は、彼女には安心して自分の負をさらけ出すことができた。というのも彼女が最後には「ま、なんとかなるやろ!」と笑い飛ばしてくれることを知っているからだ。
そしてその日も、彼女はユニークな発想で私を救ってくれた。(彼女曰く、この言葉は彼女自身が他の誰かから向けられたものらしいのだが)
「最近、自分落ちてってるなあって思っては、へこむんよねえ」
そう弱音を吐いた私に。
「落ちたら後は芽を出すだけやん」
そう言ったのだ。
一瞬「?」の文字が頭に浮かぶ。
彼女は続けた。
「今まではさ、木の枝にユラユラぶら下がってた果実やったんよ。良いように見えるけど案外不安定な状態なやつね。その果実が一度熟しきって落下したんよ。で。落ちるとこまで落ちたら、後は根を張って、芽を出して、花を咲かせて、実をつけるだけ。この繰り返し。落下するから次の芽が生まれるんよ。やからさ、落ちて良かったやん」
なんともポジティブすぎる発想だ。
楽天的すぎる!
と、頭で小馬鹿にしながらも「確かに、私落ちて良かったやん。後は丁寧に水やってればいいのか!」なんて、前向きになっている自分がいた。
『いのちの車窓から』の「怒り」のエピソードを読んで、先日の友人との会話を通して、シンプルだけど思ったことがある。
(ー)+(ー)=(ー)
の関係よりも
(ー)×(ー)=(+)
の関係の方がずっといい。
そうそう、友人と別れた後にふと思ったことがある。
「そういえば私、昔から植物を育てるの苦手で花が咲く前に枯らしてたな」と。
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【感想】『阿弥陀堂だより』肩の力を抜いて自然と生きるということ
約2ヶ月ぶりのブログ更新です。気を抜くとすぐに怠けてしまうのでダメですね。
アクセス数も減ってるだろうなあと思っていたところ、むしろ増えていて驚いています。こちらの記事を読んでくれている人がとても増えているみたいで。 ありがとうございます。
ということで、復帰(?)第一回目の投稿は小説の感想にします。
さて私、3月末で地元から東京へ上京してきて8年目を迎えます。
7年が過ぎた今でも、東京は本当に刺激的な場所だと思います。
遊ぶところはたくさんあるし、面白い人もたくさんいる。お洒落なカフェや流行の最先端をいくお店、毎週のようにどこかで行われているイベント。
飽きることなく過ごすことができる場所ですよね。
でもいつからでしょう。ゆっくりと歩く前の人が邪魔だと思うようになったのは。我武者羅に頑張っていないことが格好悪いことのように思うようになったのは。時間に追われ、いつも何者かであろうとしている気がします。
東京という街のせいではないかもしれませんが、東京という街にいるからこそ、色濃く感じてしまうのだとも思います。
こんなこと書くと「疲れてるの?」と言われそうですが、もしかすると東京での生活にちょっぴり疲れてきているのかもしれません(笑)だからこそ、今から紹介するこの小説がグッと心にきたのだと思います。
実はこの作品、高校生のときにも一度、父に薦められ読んでいるのですが、その時は全く面白くなかったんです。なので、「今が最高!イェーイ!」という人よりも「最近疲れてるなあ」「そもそも頑張るってなんだっけ?」なんて、思いがちの人にぜひ読んでみてほしいですね。
阿弥陀堂だより
あらすじ
作家としての行き詰まりを感じていた孝夫は、医者である妻・美智子が心の病を得たのを機に、故郷の信州へ戻ることにした。山里の美しい村でふたりが出会ったのは、村人の霊を祀る「阿弥陀堂」に暮らす老婆、難病とたたかいながら明るく生きる娘。静かな時の流れと豊かな自然のなかでふたりが見つけたものとは……。(文藝春秋BOOKSより)
妻・美智子は、癌の専門医として最先端の医療を担うエリート女医だったのですが、不妊のすえにようやく授かった子供が子宮内死亡した頃から、心のバランスを崩してしまいます。
夜は眠れず睡眠薬を飲む毎日。人通りの多い場所へ行くと動機が激しくなり立っていることもままならない。通勤さえもできなくなります。
そんな妻に診断された症状が「恐慌性障害(パニック・ディスオーダー)」でした。発症してから最初の数年は東京でなんとか症状を治めようと様子をみるのですが、一向に良くならず。
夫婦は、夫が大学生になる前まで過ごしていた田舎へ移り住むことを決意します。
そこで出会った自然、文化、人々。ゆっくりと流れる時間の中に身を置くことで、妻の症状も回復の兆しをみせ・・・。
というあらすじなのですが。これといって強弱があるわけでもなく。衝撃的な出来事が起こるわけでもなく。ゆっくりと話は進んでいきます。けれど、じんわりと確かに。心の中に大事なものがひとつひとつ積み重なっていく。そんな一冊です。
おうめ婆さんのお言葉
本作の登場人物として欠かせない存在が、阿弥陀堂に暮らす阿弥陀堂守のおうめさんです。齢96を重ねたお婆さま。食べるものは庭の畑で自給自足をし、用を足すにも畑に穴を掘って行うという、まさに自然とともに生きるおうめ婆さんなのですが。このおうめ婆さんの言葉にとても癒されるのです。スッと肩の力が抜けるのです。一部紹介しますね。
目先のことにとらわれるなと世間では言われていますが、春になればナス、インゲン、キュウリなど、次から次への苗を植え、水をやり、そういうふうに目先のことばかり考えていたら知らぬ間に九十六歳になっていました。目先しか見えなかったので、よそ見をして心配事を増やさなかったのがよかったのでしょうか。それが長寿のひけつかも知れません。
(出典:文庫版P96-97)
九十六年の人生の中では体の具合の悪いときもありました。そんなときはなるようにしかならないと考えていましたので、気を病んだりはしませんでした。なるようになる。なるようにしかならない。そう思っていればなるようになります。
(出典:文庫版P144)
「将来どうなりたいのか。そのために今何をしなければならないのか。」社会人になりたてのころ何度も問われました。そのたびに、目標がないことに焦りを覚えたり、目標に近づけていないことに嫌気がさしたり。どっと疲れてしまうこともしばしばありました。でも最近、(ちょっとニュアンスは違うかもしれませんが)おうめ婆さんが言うように、目先のことにコツコツ向き合っていれば、知らない間に良い方向に進んでいることもあるんじゃないかと思うようになりました。どうですかね?甘いですかね?
まあ、人生。なるようになる。なるようにしかならない。たまにはそんな風に肩の力を抜いて一息つくのも大事だと思うのです。
映画版で癒し効果倍増
「阿弥陀堂だより」ですが、映画化もされております。
映像化されることで自然の美しさが際立ち、とても素敵に仕上がっています。なんといっても、おうめ婆さんを演じる北林谷栄さん(この作品で初めて知りましたが)の演技がなんとも自然で。これは演技?え?現地の人を使ってるの?と勘違いするほどでした。原作同様、とても静かな作品ですが、何度も涙を流してしまいました。ぜひご覧ください。
【漫画】『りぼん』60周年イベントが熱い!懐かしさに心打たれる私の漫画雑誌歴(90年代生まれ向け)
週末のおでかけに何処か良いところないかなあとネットサーフィンをしていたところ、とても胸が熱くなるイベントをみつけました。その名も『250万乙女のときめき回路 at TOKYO SKYTREE』。
どうやら、少女漫画雑誌『りぼん』と東京スカイツリーが、『りぼん』創刊60周年イベントとしてコラボレーションした企画のようです。そして、コラボレーションの中心となるのは、80年代〜90年代にかけて『りぼん』で連載されていた作品達らしいのです。
『ママレードボーイ』に『ハンサムな彼女』。『こどものおもちゃ』に『赤ずきんチャチャ』。『ときめきトゥナイト』に『グッドモーニングコール』。
世代ど真ん中ではないかっ!!!!
公開されている一部の写真を見るだけでも、懐かしさで胸が熱くなります。もちろん、今でもコミック本として手元に置いている作品はいくつかあるのですが、漫画雑誌でリアルタイムで読んでいた頃の思い出というのは特別ですよね。
上記のイベントですが、2017年1月9日〜2017年3月31日の期間中で開催されているようなので、近いうちに行ってみようと思います。展望台にあがる料金も含まれるので、ちょっとばかりお値段が張るのですが・・・。
実際に行ってみたらここに書き留めるとして、今回は、私自身の漫画雑誌歴をたどってみようと思います。ちなみに私、90年代初頭生まれですので、同年代の方には懐かしいけれども、その他の方には「?」が並ぶ内容かもしれません。
(目次)
- わたしと漫画雑誌
- わたしの漫画雑誌変遷まとめ
- はじめての『なかよし』
- 「りぼ〜んり〜ぼん」と「ちゃちゃちゃちゃちゃちゃーお」時代
- ちょっぴり大人に?『別冊マーガレット』
- そしてコミック派へ
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【小説感想】『世界から猫が消えたなら』大切だと思えることって結局そんなにない。
先日、プチ失恋をした。毎日連絡を取り合っていた人で「好きかもしれないなあ」と思い始めていた矢先に「彼女ができた」と報告されたのだ。全く傷ついていない自分がいた。そもそも本当に好きだったのかさえ怪しいところだ。
そういえば初めて付き合った恋人から別れを切り出された時も、開放感さえ感じはしたが、寂しさや虚無感を抱くことはなかった。私をよく知る友人にも「まあ落ち込む質ではないよね」と言われたほどだ。
幼い頃から10年以上続けていたピアノや習字といった習い事も東京に上京するのと合わせてあっさりと辞めた。
「失ってはじめて、その存在が大切だったことに気づく」とよく言うが、私にしてみれば、「失ってはじめて、実はそこまで大切ではなかったことに気づく」という方が圧倒的に多いように思う。
だから時々、虚しくなる。「好きだなあ」と思えるものに対峙している時に、「でもこれが無くなったところで、私は特になんとも思わないんだろうなあ」とふと思うことがある。そうなると「私は本当にこれが好き(大切)なのだろうか」と疑問を抱かざるをえない。なんとも、虚しい。
それでも最近では「まあ、何かにそんなに執着し続けないのが私か」と割り切っている節がある。というのもの、その存在自体が自分にとってそれほど大切でなかったとしても、その存在に向き合っていた時間や、その時間があったからこそ残る思い出は、きっと大切なものであるはずだと思えるようになったからだ。
お正月に家族が集まれば、「(亡くなった)婆ちゃん、あんたが弾くピアノの曲の中で、どんな難しい曲よりも、なぜか“ ネコ踏んじゃった ”のジャズver.が好きやったよねえ」と思い出話しに花が咲く。ピアノという存在が与えてくれた、私にとって大切な思い出だ。
確かに、「これがないと生きていけない!!」と公言できるだけの存在(物でも人でも)があるということは、今でも羨ましいし憧れを抱いている。けれどまあ、そんな存在に出会うことなんて滅多にないだろう。だから私は、その存在が与えてくれた経験や思い出だけは「大切なものなんだ」と否定せずにいようと思う。
さて、こんなことを突然書いたのは以下の作品を読んだから。
『世界から猫が消えたなら』(著:川村元気)
映画化(佐藤健主演)もされているベストセラーなので、もはや周知の人も多いかと思いますが、簡単にあらすじを以下引用。
これは余命わずかの僕と僕が生きるために消してしまった「かけがえないもの」の物語。
主人公は30歳の郵便配達員。愛猫キャベツとふたりぐらし。
母を病気で亡くしてから、実家の父とは疎遠になってしまいました。
恋人はいません。別れてしまった彼女のことを、まだ想い続けています。
趣味は映画観賞。友だちは映画マニアの親友が一人だけ。
そんな彼が、ある日突然、余命わずかの宣告を受けてしまいます。
脳に悪性の腫瘍ができていたのです。
ショックで呆然とする彼の前に、とつぜん、自分と同じ姿をした悪魔が現れて言いました。
「世界から何かひとつ、ものを消すことで、1日の命をあげよう」…。
悪魔のささやきに乗せられた主人公は、次々とものを消していきます。
電話、映画、時計、そして、猫。
ところが、何かを消すと、大切な人たちとの思い出も一緒に消えてしまうことになり…。(引用:Amazon)
文章が簡潔で淡々としており、テーマも非常にわかりやすいので、とにかく読みやすい。絵本感覚で読めるまさにエンターテインメント作品だと思う。気になる方は、自分にとっての大切な存在を思い浮かべながら、ぜひご一読を。
以上!
※川村元気さん別著書については以下。
※映画も観てみようかなあ。
【小説感想】『きみはポラリス』(三浦しをん)さまざまな恋のかたちを描いた究極の恋愛小説(1)
人はどんな時にその感情を「恋」と呼ぶのだろう。
その人をついつい目で追ってしまうとき。
その人のことが頭から離れず、眠れないとき。
会話するだけでもドキドキと胸が高鳴るとき。
そんな、まるで少女漫画で描かれるようなシチュエーションと出会ったとき、その感情を「恋」と呼ぶ人は多いと思う。
けれども、果たしてそれだけだろうか。
羨望。憎悪。執着。
そのときは恋だと気がつかなくとも、振り返ると、その感情こそ「恋」をしていたが故に芽生えたものなのだと、気づかされた経験はないだろうか。
今回紹介する作品は、そんな風に、決してひとつではない、決して形式立てることができない、様々な恋のかたちが綴られた短編小説集である。
以下、ネタバレ含む感想となるのでご注意ください。
続きを読む【雑記】逃げ恥8話にみる親と娘のメタメッセージ(星野源のラジオを聴いて)
明日の逃げ恥9話を前に、星野源さんのラジオ「オールナイトニッポン」を聞く。朝は容赦なくやってくるというのに、夜更かしを満喫しているわけです。眠気まなこをこすりながら、ラジオを聞く。まさに、至福の時間ですよね。仕事のこととか考えない!(ちなみに一番好きなラジオ番組は「山里亮太の不毛な議論」で、radiko.jpは最も欠かせないアプリです)
というわけで、夜な夜な星野さんの声に耳を傾けていたところ、逃げ恥8話のあるシーンについて、星野さんがこんなことを語っていました。印象的だったので、今回はこのことについて書きます。
親と子の裏のコミュニケーション
※以下、「星野源のオールナイトニッポン」より
※一言一句、抜き出せてはいません。
(星野さん)
もうひとつ、好きなシーンがあって。
みくりさんが、お母さんが骨折しちゃって、心配して実家に帰るわけです。で、お母さんは「帰ってこなくていい」と。で、お兄さんにも「帰ってこなくていいよ」って言うんですけど、みんな心配だから、息子や娘たちは帰ってくるわけですよ。で、みくりさんの友達も来たりしてね。
で、そんな中で賑々しく実家での数日があるわけですけど、1日かな?日にちが経って、お兄さん夫婦もみくりさんの友達も、みんな帰っちゃうんです。で、みくりさんだけが残る。
で、さくらさん(みくりの母)が「みんな帰っちゃって寂しいなあ」って言うんです。そうすると、みくりさんが、「来るなって言ったくせに」って。で、その後にさくらさんがみくりさんに向かって「ずっと居てもいいのよ」って言うんですよ。みくりさんと平匡さんが喧嘩していることを察しているうえで、、、(さくらさんが)「ずっと居てもいいよ」と言って、(みくりさんが)「うん」って言うんですけど、そのシーンがすごく好きで。
なぜ好きかというと、「ずっと居てもいいのよ」って言うことは「あなた帰りなさい」って言ってることなんですよ。特に、なんの説明もないんですよ??表情的に「あなたすぐ帰りなさい」っていう表情で言うんじゃなくて、本当に「ずっと居てもいいのよ」ってサラっと言うんですけど、、それを見て、ちょっとだけニコって笑うんだけど、ちょっとだけ何かを察したように、みくりさんが「うん」って言う。で、その後にみくりさんが帰るっていうシーンがあるんですね。
なんの説明もなく、母と子の裏のコミュニケーションがあるっていうシーンなんですよ、あれ。いやあ、凄いなあと思って。その台詞の順番もそうですけど・・・。
この星野さんの解説(というのかな?)を聴いて、ふと、頭によぎったことがあるんです。最近、私自身が転職をしたことは、このブログの随所に書いているんですけど、前職を辞めて新しい職場に入るまでの一ヶ月間、実家で過ごしてたんですね。
で、実家で過ごす最後の日。
いつもなら空港まで送ってくれるのは父か母かどちらか一方なんですけど、その日は父も母もついてきてくれたんです。犬の散歩がてら、とか何だとか言って。
空港に到着してからも、「駐車料金高いし、私を降ろしたら帰っていいよ」って言ったのに、わざわざ車を停めて、空港内までついてきてくれるんです。以前のブログに書いたように、父は相変わらずの作務衣+下駄スタイルで。
なんだか、大学進学の為に初めて実家を出て、東京に飛び立った日みたいでした。父も母も(もう亡くなってしまったけれど)祖父も祖母も兄まで、みんなで見送りに来てくれた日みたいでした。
20半ばを超えたいい大人が、父と母に見送られるなんて何だか恥ずかしさもあったけど、嫌じゃなかったというか、何だかんだ嬉しかったんだと思います。
で、搭乗時刻になって別れるときに、まずは母が一言。
「ガムシャラにやってきなさいね」と。
で、続いて父が茶化すように一言。
「ダメやったらすぐ帰って来ていいっちゃけんね」と。
そんな父に、すかさず母が「なん言いよると。そんなすぐに帰ってきて貰っちゃ困る」と。それに対して父は「かかあは、恐ろしかあ」なんて笑ってましたけど。星野さんの話を聴いて、逃げ恥の8話を見直して、このときのやりとりを思い出したんですよね。
“思い”と“言葉”の関係性
以前のブログでも、感情を言葉で表すことについて少しだけ書きましたが、今回のことを受けて、やっぱり感情と言葉の関係性って尊いなって思います。
感情を直接的に言葉で伝えるほうが良いときもあれば、直接的な言葉にしないほうが、より相手に真意が届くこともある。
まあ、あの父と母ですから、私が、彼らのあの日の言動から感じ取ったことを伝えたところで、「そんなこと考えとらんし!」とか言って、ガハガハと笑われそうですが・・・。ま、勝手に解釈するのも悪くないですよね。
さて、逃げ恥9話も楽しみですね!
ちなみに、ドラマをきちんと毎週通して見るのは数年ぶりです。
…それにしても、星野さんが役だけじゃなくてラジオでも“みくりさん”って呼び捨てにせずに呼んでるのなんかいいなぁ〜。
以上!
※ちなみに、両親 ・ 感情と言葉について書いたブログは以下※
【小説感想】『四月になれば彼女は』“なぜ人を愛するのか”理屈では説明できない問いと対峙する。
色鮮やかな装丁を施した本が並ぶ中、その一冊を手に取った。
天国に一番近い湖と言われるウユニ塩湖のグラフィックに白い文字でタイトルが綴られている。全体的に薄い色素のデザインは儚く消えてしまいそうで、けれども、確かな存在感を放っている。私はその本を無意識に手に取っていた。
作者は川村元気。2016年だけでも「怒り」「シン・ゴジラ」「君の名は。」などの大ヒット映画を世に送り出した敏腕プロデューサーだ。作家としても「世界から猫が消えたなら」や「億男」などベストセラーを出版している。そんな彼の最新作。読むしかないと、迷わずレジに向かった。
そして今。この本を読み終わり、私はどうしようもない孤独感に襲われている。恋愛小説を読み終わった後の「こんな恋がしたいなあ(うっとり)」という通常の感情が微塵もない。残ったのは孤独、それだけだ。
きっと今感じてる孤独も“いつの間にか消えていってしまう”儚いものだろうから、忘れないうちに本ブログに書き綴っておくことにする。(引用文などを含むのでネタバレが嫌いな方はご注意を)
『四月になれば彼女は』
あらすじ
本作は、 大学病院で精神科医として勤務する【藤代俊】の元に、一通の手紙が届くところから物語が始まる。差出人はかつての恋人【ハル】。大学生時代に交際していた、藤代にとって、初めて恋した相手だ。そんなハルからの突然の手紙。そこには、ハルが現在旅をしているという異国の情景や、大学生時代の藤代との思い出が綴られていた。そして毎回、その時々にハルが撮ったという一枚の写真が同封されていた。
なぜ“今”になって、かつての恋人からこのような手紙が届くのか。折しもその手紙が届いたのは、藤代が現在の婚約者【坂本弥生】との結婚を控えた1年前だったのだ。
同棲して3年。お互いの行動のタイミングは把握し合っている。コミュニケーションは滞りなく運ぶ。居心地も悪くない。結婚をするのは自然の流れだ。“けれども”。ふたりは、かれこれ2年以上セックスをしていない。そんな藤代と弥生の関係が、【ハル】からの手紙をきっかけに、変化し始める。
「なぜ人を愛するのか。なぜそれが失われていくことを止められないのか」
藤代と弥生とハル、そして、“夫とセックスレスが続く”弥生の妹、“今後一切、男性と触れ合うことはないと決意した”職場の後輩、“ゲイだと噂されている”友人など、藤代の学生時代の懐古シーンを挟みながら、様々な人物たちの愛のカタチを問う12ヶ月間が始まる。
なぜ人を愛するのか。理屈では語れない問いと対峙する。
本作を読んでいる時、部屋の外から工事現場の音がかすかに聞こえてきた。邪魔だと思った。この作品を、何の音も感じない空間で読みたいと思った。分かりにくいかもしれないが、私は本作を、一面が真っ白な壁に覆われた窓ひとつない部屋で、どこかにあるはずの出口を探しているような、そんな気持ちで読み進めていた。 音ひとつない色ひとつない場所で、そもそも答えが何なのか、どこにあるのかも分からないまま、でも探し続ける。そんな感覚を終始抱いていた。
恋は風邪と似ている。風邪のウイルスはいつの間にか体を冒し、気づいたら発熱している。だがときが経つにつれ、その熱は失われていく。熱があったことが嘘のように思える日がやってくる。誰にでも避けがたく、その瞬間は訪れる。(P61)
「結局わたしが彼のことを男性として見たことはなかったんだと思う。あのはじめてのセックスのときですら」(P75)
「セックスによって愛を確認することなんてできないと思っているんでしょうね。確かに、それが愛のあるものなのか、愛のないものなのかは、どこまでもわからない」(P208)
「やっぱり僕は自分がいちばん大事なんですよ。それなのに誰かとずっと一緒にいるとか無理がありません?」(P241)
けれども、人は恋をする。
けれども、人はセックスをする。
けれども、人は結婚をする。
本作には、理屈では簡単に説明できない、“けれども”がたくさん詰め込まれている。不変の愛など存在しない。“けれども”、「なぜ人は人を愛するのか」という難問を、冒頭から最後まで突きつけられ続けるのだ。まるで哲学だ。
だからだろう。上述したような、手探りの状態で居続ける心地を覚えたのは。
動物、人工知能、そして、死
小説を読むとき私は、作者はなぜこのタイミングでこのキーワードを絡めてきたのだろうと考えることが多々ある。本作のテーマにどう関係しているのだろう、と。
私にとって本作のそのキーワードは、「動物・人工知能・死」であった。まず、「動物・人工知能」というキーワードが、「なぜ人は人を愛するのか」というテーマに、重みと、かけがえのなさを与えているように感じた。
「動物とは性格の不一致とか、価値観の違いでぶつかることもないだろうし、案外いいのかもしれない」
弥生はひとりごとのように言うと、おしぼりで口を拭いた。
「意思の疎通ができないことが、永遠の愛につながるのかも」
藤代は眉を下げながら同意した。(P180)
人と動物や人工知能とでは、何が違うのか。明確な答えが綴られているわけではないが、そこに重要なヒントがあるように思わされる。
そしてもうひとつ。死というキーワードについて。
本作では、ある人物の死が描かれているのだが、そのことによって、恋愛と生の関係が色濃く浮き上がってくる。人は必ず死ぬ。“けれども”、生き続ける。いつか死ぬとわかっていても生きる。恋愛もだ。恋愛もいつかは終わりを告げる。“けれども”、人は人に恋をする。
じゃあなぜ生きるのか。じゃあなぜ恋をするのか。
まるで答えのない問いに、作者はどう答えるのか。ぜひ本書を手にとって、読み解いてほしい。
孤独を感じた理由
冒頭私は、本書を読んで「孤独を感じた」と書いた。それはなぜか。それは、私は誰かのことを焦がれるほど好きになったことがないからだ。弥生の言葉を借りれば、「誰かを思って胸が苦しくなったり、眠れないほどに嫉妬したり、そういうこと(P30)」をしたことがないからだ。そんな私を揶揄するような一節もまた、本作には含まれている。
例えば、離婚した父について母が語った言葉。
お父さんが他人を受け入れることができなかったのは、自分のことがよくわからないからなのよ。(P239)
そして、ゲイと噂される藤代の友人が語った言葉。
でも僕、思うんです。人は誰のことも愛せないと気づいたときに、孤独になるんだと思う。それって自分を愛していないってことだから。(P247)
なんだか図星をさされたようで。本作で最も印象に残ったシーンかもしれない。とはいえ、一晩寝ればこの孤独感もケロッと失ってしまうのだろうが。。。
四月になれば彼女は
「四月になれば彼女は」という題名は、1960年代に活躍したアメリカ人の歌手“サイモン&ガーファンクル”の歌のタイトルらしい。サイモン&ガーファンクルといえば、中学のときに英後の授業で「明日に架ける橋」を練習したなあと、懐かしい気持ちになった。
私は小説に実在する音楽が出てくるのが好きだ。村上春樹のボブ・ディランも然り、伊坂幸太郎のローランド・カークもまた然り。
「四月になれば彼女は」は初めて聴いたが、サイモン&ガーファンクルの甘くて淡い声に、これから数週間はどっぷりとハマることになりそうだ。
おわりに
願わくば、本作を「誰かを思って胸が苦しくなったり、眠れないほどに嫉妬したり、そういうこと」 ができる相手と出会ったときにもう一度読み返したいなと思う。
そして、その相手との愛情が薄らいでくるようなことがあろうものなら、ふたりで、この物語を読み返したい。そう思った。
以上!
同著者の別作品については以下。