日々、てくてくと。

本・漫画・ハロプロネタを中心に日々考えてることを気ままに。

【感想】『阿弥陀堂だより』肩の力を抜いて自然と生きるということ

 

約2ヶ月ぶりのブログ更新です。気を抜くとすぐに怠けてしまうのでダメですね。

アクセス数も減ってるだろうなあと思っていたところ、むしろ増えていて驚いています。こちらの記事を読んでくれている人がとても増えているみたいで。 ありがとうございます。

 

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ということで、復帰(?)第一回目の投稿は小説の感想にします。

 

さて私、3月末で地元から東京へ上京してきて8年目を迎えます。

7年が過ぎた今でも、東京は本当に刺激的な場所だと思います。

遊ぶところはたくさんあるし、面白い人もたくさんいる。お洒落なカフェや流行の最先端をいくお店、毎週のようにどこかで行われているイベント。

飽きることなく過ごすことができる場所ですよね。

でもいつからでしょう。ゆっくりと歩く前の人が邪魔だと思うようになったのは。我武者羅に頑張っていないことが格好悪いことのように思うようになったのは。時間に追われ、いつも何者かであろうとしている気がします。

東京という街のせいではないかもしれませんが、東京という街にいるからこそ、色濃く感じてしまうのだとも思います。

こんなこと書くと「疲れてるの?」と言われそうですが、もしかすると東京での生活にちょっぴり疲れてきているのかもしれません(笑)だからこそ、今から紹介するこの小説がグッと心にきたのだと思います。

 

阿弥陀堂だより (文春文庫)

 

実はこの作品、高校生のときにも一度、父に薦められ読んでいるのですが、その時は全く面白くなかったんです。なので、「今が最高!イェーイ!」という人よりも「最近疲れてるなあ」「そもそも頑張るってなんだっけ?」なんて、思いがちの人にぜひ読んでみてほしいですね。

 

 阿弥陀堂だより

あらすじ

 作家としての行き詰まりを感じていた孝夫は、医者である妻・美智子が心の病を得たのを機に、故郷の信州へ戻ることにした。山里の美しい村でふたりが出会ったのは、村人の霊を祀る「阿弥陀堂」に暮らす老婆、難病とたたかいながら明るく生きる娘。静かな時の流れと豊かな自然のなかでふたりが見つけたものとは……。文藝春秋BOOKSより)

 

妻・美智子は、癌の専門医として最先端の医療を担うエリート女医だったのですが、不妊のすえにようやく授かった子供が子宮内死亡した頃から、心のバランスを崩してしまいます。

夜は眠れず睡眠薬を飲む毎日。人通りの多い場所へ行くと動機が激しくなり立っていることもままならない。通勤さえもできなくなります。

そんな妻に診断された症状が「恐慌性障害(パニック・ディスオーダー)」でした。発症してから最初の数年は東京でなんとか症状を治めようと様子をみるのですが、一向に良くならず。

夫婦は、夫が大学生になる前まで過ごしていた田舎へ移り住むことを決意します。

そこで出会った自然、文化、人々。ゆっくりと流れる時間の中に身を置くことで、妻の症状も回復の兆しをみせ・・・。

というあらすじなのですが。これといって強弱があるわけでもなく。衝撃的な出来事が起こるわけでもなく。ゆっくりと話は進んでいきます。けれど、じんわりと確かに。心の中に大事なものがひとつひとつ積み重なっていく。そんな一冊です。

 

おうめ婆さんのお言葉

本作の登場人物として欠かせない存在が、阿弥陀堂に暮らす阿弥陀堂守のおうめさんです。齢96を重ねたお婆さま。食べるものは庭の畑で自給自足をし、用を足すにも畑に穴を掘って行うという、まさに自然とともに生きるおうめ婆さんなのですが。このおうめ婆さんの言葉にとても癒されるのです。スッと肩の力が抜けるのです。一部紹介しますね。

目先のことにとらわれるなと世間では言われていますが、春になればナス、インゲン、キュウリなど、次から次への苗を植え、水をやり、そういうふうに目先のことばかり考えていたら知らぬ間に九十六歳になっていました。目先しか見えなかったので、よそ見をして心配事を増やさなかったのがよかったのでしょうか。それが長寿のひけつかも知れません。

(出典:文庫版P96-97)

 

九十六年の人生の中では体の具合の悪いときもありました。そんなときはなるようにしかならないと考えていましたので、気を病んだりはしませんでした。なるようになる。なるようにしかならない。そう思っていればなるようになります。

(出典:文庫版P144) 

 

 「将来どうなりたいのか。そのために今何をしなければならないのか。」社会人になりたてのころ何度も問われました。そのたびに、目標がないことに焦りを覚えたり、目標に近づけていないことに嫌気がさしたり。どっと疲れてしまうこともしばしばありました。でも最近、(ちょっとニュアンスは違うかもしれませんが)おうめ婆さんが言うように、目先のことにコツコツ向き合っていれば、知らない間に良い方向に進んでいることもあるんじゃないかと思うようになりました。どうですかね?甘いですかね?

 

まあ、人生。なるようになる。なるようにしかならない。たまにはそんな風に肩の力を抜いて一息つくのも大事だと思うのです。

 

映画版で癒し効果倍増

阿弥陀堂だより」ですが、映画化もされております。

 

阿弥陀堂だより

 

映像化されることで自然の美しさが際立ち、とても素敵に仕上がっています。なんといっても、おうめ婆さんを演じる北林谷栄さん(この作品で初めて知りましたが)の演技がなんとも自然で。これは演技?え?現地の人を使ってるの?と勘違いするほどでした。原作同様、とても静かな作品ですが、何度も涙を流してしまいました。ぜひご覧ください。

 


amidado dayori 2002 trailer

 

 

【小説感想】『世界から猫が消えたなら』大切だと思えることって結局そんなにない。

 

先日、プチ失恋をした。毎日連絡を取り合っていた人で「好きかもしれないなあ」と思い始めていた矢先に「彼女ができた」と報告されたのだ。全く傷ついていない自分がいた。そもそも本当に好きだったのかさえ怪しいところだ。

 

そういえば初めて付き合った恋人から別れを切り出された時も、開放感さえ感じはしたが、寂しさや虚無感を抱くことはなかった。私をよく知る友人にも「まあ落ち込む質ではないよね」と言われたほどだ。

幼い頃から10年以上続けていたピアノや習字といった習い事も東京に上京するのと合わせてあっさりと辞めた。

 

失ってはじめて、その存在が大切だったことに気づく」とよく言うが、私にしてみれば、「失ってはじめて、実はそこまで大切ではなかったことに気づく」という方が圧倒的に多いように思う。 

 

だから時々、虚しくなる。「好きだなあ」と思えるものに対峙している時に、「でもこれが無くなったところで、私は特になんとも思わないんだろうなあ」とふと思うことがある。そうなると「私は本当にこれが好き(大切)なのだろうか」と疑問を抱かざるをえない。なんとも、虚しい。

 

それでも最近では「まあ、何かにそんなに執着し続けないのが私か」と割り切っている節がある。というのもの、その存在自体が自分にとってそれほど大切でなかったとしても、その存在に向き合っていた時間や、その時間があったからこそ残る思い出は、きっと大切なものであるはずだと思えるようになったからだ。

 

お正月に家族が集まれば、「(亡くなった)婆ちゃん、あんたが弾くピアノの曲の中で、どんな難しい曲よりも、なぜか“ ネコ踏んじゃった ”のジャズver.が好きやったよねえ」と思い出話しに花が咲く。ピアノという存在が与えてくれた、私にとって大切な思い出だ。

 

確かに、「これがないと生きていけない!!」と公言できるだけの存在(物でも人でも)があるということは、今でも羨ましいし憧れを抱いている。けれどまあ、そんな存在に出会うことなんて滅多にないだろう。だから私は、その存在が与えてくれた経験や思い出だけは「大切なものなんだ」と否定せずにいようと思う。

 

さて、こんなことを突然書いたのは以下の作品を読んだから。

世界から猫が消えたなら (小学館文庫)

世界から猫が消えたなら』(著:川村元気

 

映画化(佐藤健主演)もされているベストセラーなので、もはや周知の人も多いかと思いますが、簡単にあらすじを以下引用。

 

これは余命わずかの僕と僕が生きるために消してしまった「かけがえないもの」の物語。
主人公は30歳の郵便配達員。愛猫キャベツとふたりぐらし。
母を病気で亡くしてから、実家の父とは疎遠になってしまいました。
恋人はいません。別れてしまった彼女のことを、まだ想い続けています。
趣味は映画観賞。友だちは映画マニアの親友が一人だけ。
そんな彼が、ある日突然、余命わずかの宣告を受けてしまいます。
脳に悪性の腫瘍ができていたのです。
ショックで呆然とする彼の前に、とつぜん、自分と同じ姿をした悪魔が現れて言いました。
「世界から何かひとつ、ものを消すことで、1日の命をあげよう」…。
悪魔のささやきに乗せられた主人公は、次々とものを消していきます。
電話、映画、時計、そして、猫。
ところが、何かを消すと、大切な人たちとの思い出も一緒に消えてしまうことになり…。

 (引用:Amazon

 

文章が簡潔で淡々としており、テーマも非常にわかりやすいので、とにかく読みやすい。絵本感覚で読めるまさにエンターテインメント作品だと思う。気になる方は、自分にとっての大切な存在を思い浮かべながら、ぜひご一読を。

以上!

 

川村元気さん別著書については以下。

tekuteku014.hatenadiary.com

※映画も観てみようかなあ。 

世界から猫が消えたなら DVD 通常版

世界から猫が消えたなら DVD 通常版

 

 

【小説感想】『きみはポラリス』(三浦しをん)さまざまな恋のかたちを描いた究極の恋愛小説(1)

 

人はどんな時にその感情を「恋」と呼ぶのだろう。

その人をついつい目で追ってしまうとき。

その人のことが頭から離れず、眠れないとき。

会話するだけでもドキドキと胸が高鳴るとき。

そんな、まるで少女漫画で描かれるようなシチュエーションと出会ったとき、その感情を「恋」と呼ぶ人は多いと思う。

けれども、果たしてそれだけだろうか。

羨望。憎悪。執着。

そのときは恋だと気がつかなくとも、振り返ると、その感情こそ「恋」をしていたが故に芽生えたものなのだと、気づかされた経験はないだろうか。

今回紹介する作品は、そんな風に、決してひとつではない、決して形式立てることができない、様々な恋のかたちが綴られた短編小説集である。

 

『きみはポラリス』(三浦しをん

 

きみはポラリス (新潮文庫)

 

以下、ネタバレ含む感想となるのでご注意ください。

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【小説感想】『四月になれば彼女は』“なぜ人を愛するのか”理屈では説明できない問いと対峙する。

 

色鮮やかな装丁を施した本が並ぶ中、その一冊を手に取った。

天国に一番近い湖と言われるウユニ塩湖のグラフィックに白い文字でタイトルが綴られている。全体的に薄い色素のデザインは儚く消えてしまいそうで、けれども、確かな存在感を放っている。私はその本を無意識に手に取っていた。

作者は川村元気。2016年だけでも「怒り」「シン・ゴジラ」「君の名は。」などの大ヒット映画を世に送り出した敏腕プロデューサーだ。作家としても「世界から猫が消えたなら」や「億男」などベストセラーを出版している。そんな彼の最新作。読むしかないと、迷わずレジに向かった。

そして今。この本を読み終わり、私はどうしようもない孤独感に襲われている。恋愛小説を読み終わった後の「こんな恋がしたいなあ(うっとり)」という通常の感情が微塵もない。残ったのは孤独、それだけだ。

 

四月になれば彼女は

 

きっと今感じてる孤独も“いつの間にか消えていってしまう”儚いものだろうから、忘れないうちに本ブログに書き綴っておくことにする。(引用文などを含むのでネタバレが嫌いな方はご注意を)

 

『四月になれば彼女は』

あらすじ

本作は、 大学病院で精神科医として勤務する【藤代俊】の元に、一通の手紙が届くところから物語が始まる。差出人はかつての恋人【ハル】。大学生時代に交際していた、藤代にとって、初めて恋した相手だ。そんなハルからの突然の手紙。そこには、ハルが現在旅をしているという異国の情景や、大学生時代の藤代との思い出が綴られていた。そして毎回、その時々にハルが撮ったという一枚の写真が同封されていた。

なぜ“今”になって、かつての恋人からこのような手紙が届くのか。折しもその手紙が届いたのは、藤代が現在の婚約者【坂本弥生】との結婚を控えた1年前だったのだ。

同棲して3年。お互いの行動のタイミングは把握し合っている。コミュニケーションは滞りなく運ぶ。居心地も悪くない。結婚をするのは自然の流れだ。“けれども”。ふたりは、かれこれ2年以上セックスをしていない。そんな藤代と弥生の関係が、【ハル】からの手紙をきっかけに、変化し始める。

なぜ人を愛するのか。なぜそれが失われていくことを止められないのか

藤代と弥生とハル、そして、“夫とセックスレスが続く”弥生の妹、“今後一切、男性と触れ合うことはないと決意した”職場の後輩、“ゲイだと噂されている”友人など、藤代の学生時代の懐古シーンを挟みながら、様々な人物たちの愛のカタチを問う12ヶ月間が始まる。

 

 なぜ人を愛するのか。理屈では語れない問いと対峙する。

本作を読んでいる時、部屋の外から工事現場の音がかすかに聞こえてきた。邪魔だと思った。この作品を、何の音も感じない空間で読みたいと思った。分かりにくいかもしれないが、私は本作を、一面が真っ白な壁に覆われた窓ひとつない部屋で、どこかにあるはずの出口を探しているような、そんな気持ちで読み進めていた。 音ひとつない色ひとつない場所で、そもそも答えが何なのか、どこにあるのかも分からないまま、でも探し続ける。そんな感覚を終始抱いていた。

恋は風邪と似ている。風邪のウイルスはいつの間にか体を冒し、気づいたら発熱している。だがときが経つにつれ、その熱は失われていく。熱があったことが嘘のように思える日がやってくる。誰にでも避けがたく、その瞬間は訪れる。(P61)

「結局わたしが彼のことを男性として見たことはなかったんだと思う。あのはじめてのセックスのときですら」(P75)

「セックスによって愛を確認することなんてできないと思っているんでしょうね。確かに、それが愛のあるものなのか、愛のないものなのかは、どこまでもわからない」(P208) 

「やっぱり僕は自分がいちばん大事なんですよ。それなのに誰かとずっと一緒にいるとか無理がありません?」(P241) 

 けれども、人は恋をする。

けれども、人はセックスをする。

けれども、人は結婚をする。

本作には、理屈では簡単に説明できない、“けれども”がたくさん詰め込まれている。不変の愛など存在しない。“けれども”、「なぜ人は人を愛するのか」という難問を、冒頭から最後まで突きつけられ続けるのだ。まるで哲学だ。

だからだろう。上述したような、手探りの状態で居続ける心地を覚えたのは。

 

動物、人工知能、そして、死

小説を読むとき私は、作者はなぜこのタイミングでこのキーワードを絡めてきたのだろうと考えることが多々ある。本作のテーマにどう関係しているのだろう、と。

私にとって本作のそのキーワードは、「動物・人工知能・死」であった。まず、「動物・人工知能」というキーワードが、「なぜ人は人を愛するのか」というテーマに、重みと、かけがえのなさを与えているように感じた。

「動物とは性格の不一致とか、価値観の違いでぶつかることもないだろうし、案外いいのかもしれない」

弥生はひとりごとのように言うと、おしぼりで口を拭いた。

「意思の疎通ができないことが、永遠の愛につながるのかも」

藤代は眉を下げながら同意した。(P180)

果たして、人工知能愛する人に嫉妬するのだろうか。人の過ちを大目に見たり、水に流したりできるのだろうか。(P155) 

 人と動物や人工知能とでは、何が違うのか。明確な答えが綴られているわけではないが、そこに重要なヒントがあるように思わされる。

そしてもうひとつ。死というキーワードについて。

本作では、ある人物の死が描かれているのだが、そのことによって、恋愛と生の関係が色濃く浮き上がってくる。人は必ず死ぬ。“けれども”、生き続ける。いつか死ぬとわかっていても生きる。恋愛もだ。恋愛もいつかは終わりを告げる。“けれども”、人は人に恋をする。

じゃあなぜ生きるのか。じゃあなぜ恋をするのか。

まるで答えのない問いに、作者はどう答えるのか。ぜひ本書を手にとって、読み解いてほしい。

 

孤独を感じた理由

冒頭私は、本書を読んで「孤独を感じた」と書いた。それはなぜか。それは、私は誰かのことを焦がれるほど好きになったことがないからだ。弥生の言葉を借りれば、「誰かを思って胸が苦しくなったり、眠れないほどに嫉妬したり、そういうこと(P30)」をしたことがないからだ。そんな私を揶揄するような一節もまた、本作には含まれている。

例えば、離婚した父について母が語った言葉。

お父さんが他人を受け入れることができなかったのは、自分のことがよくわからないからなのよ。(P239)

そして、ゲイと噂される藤代の友人が語った言葉。

でも僕、思うんです。人は誰のことも愛せないと気づいたときに、孤独になるんだと思う。それって自分を愛していないってことだから。(P247) 

なんだか図星をさされたようで。本作で最も印象に残ったシーンかもしれない。とはいえ、一晩寝ればこの孤独感もケロッと失ってしまうのだろうが。。。

 

四月になれば彼女は

「四月になれば彼女は」という題名は、1960年代に活躍したアメリカ人の歌手“サイモン&ガーファンクル”の歌のタイトルらしい。サイモン&ガーファンクルといえば、中学のときに英後の授業で「明日に架ける橋」を練習したなあと、懐かしい気持ちになった。

私は小説に実在する音楽が出てくるのが好きだ。村上春樹ボブ・ディランも然り、伊坂幸太郎ローランド・カークもまた然り。

「四月になれば彼女は」は初めて聴いたが、サイモン&ガーファンクルの甘くて淡い声に、これから数週間はどっぷりとハマることになりそうだ。 

 

Sounds of Silence (Exp)

 

おわりに

願わくば、本作を「誰かを思って胸が苦しくなったり、眠れないほどに嫉妬したり、そういうこと」 ができる相手と出会ったときにもう一度読み返したいなと思う。

そして、その相手との愛情が薄らいでくるようなことがあろうものなら、ふたりで、この物語を読み返したい。そう思った。 

 

以上!

四月になれば彼女は

四月になれば彼女は

 

 

同著者の別作品については以下。 

tekuteku014.hatenadiary.com

 

 

【小説感想】12月1日は映画の日!映画好きによる映画好きのための小説『キネマの神様』

 

「12月1日は何の日?」「映画の日

ということで今回は、私が好きな映画をご紹介!

ー…するのではなく、原田マハさん著の“ 映画好きによる映画好きのための小説 ”『キネマの神様』について書こうと思う。ちなみに、映画の日は1956年に映画産業団体連合会が制定したらしい。ぜひ、薀蓄のひとつとしてお見知り置きを。

  

キネマの神様 (文春文庫)

 

ただ、好きだ。それだけなんだ。

 

原田マハさんの作品を読んだのは本作が初めてだった。

読み終えて一番に思ったことは「この作者は本当に映画を愛しているんだな」ということだ。本作には実在する映画のタイトルがいくつも出てくる。その作品ひとつひとつに、そして映画という娯楽そのものに対する、作者の恋慕や敬意がひしひしと伝わってくるのだ。本作に出てくる登場人物たちの台詞は、きっとそのまま作者が思っていることなのだろうと思えてくる。

では、簡単にあらすじを。

 

 本作は、39歳の独身女性【円山歩】の視点から綴られている。歩は国内有数の大手デベロッパーに勤務し、「開発地区に映画館を中心とした文化施設を作る」というプロジェクトの課長を担っていた。しかし、女性社員の昇進をよく思わない社員による根も葉もない噂が広がったことにより、歩はそのプロジェクトを外され、17年間勤めた会社を辞職することに。その後、ひょんなことから映画雑誌『映友』を発行する会社に入社することになる。

 

さて、いよいよ歩を中心に物語が動きだすのか。・・・と思っていたが、実は本作。スポットライトを最も浴びるのは、【歩】ではなく、歩の父親なのだ。この父親【(通称)ゴウ】は、どうしようもないギャンブル好きで長年家族を困らせていた。 病気を患って入院しても病院を抜け出してギャンブルへ。果てには多額の借金が発覚する。

 

しかし、そんなゴウにも健全とも言える趣味があった。それが、映画だ。行きつけの小さな名画座、【テアトル銀幕】の真ん中の席は、いつだってゴウの特等席なのである。

 

そんなゴウが、これまたひょんなことから、歩が転職した会社で映画ブログをスタートさせることになる。そして、いよいよ始まるのだ。ブログというツールを通して、ゴウローズ・バッドと名乗る人物との映画論争が。

 

本作は野球賛美の映画である以上に、家族愛の物語なのです。 ーと、ゴウがブログに書けば、ー君はこの映画が「家族愛の物語」だと書いていたが、そんなに単純なものであれば、我々はもっと気楽にこの映画を堪能することができただろう。ーと、すかさずローズ・バッドがコメントをする。そんな論争が、実在する数々の映画に対して繰り広げられるのだ。

 

ローズ・バッドの正体については驚きとしか言いようがないが、こちらはネタバレになるので書くことは控えておく。

とにかく、ゴウそしてローズ・バッドの映画論争がとてつもなく面白いのだ。そして羨ましい!という気持ちを抱かざるをえないのだ。好きなものについて、これだけ意見を交わすことができるゴウやローズ・バッドに対して、嫉妬してしまうのだ。この嫉妬心は、本作を読めばきっと理解してもらえるだろう。好きなものを通して、戦友?盟友?と呼べるような相手と巡り会える。うん、とにかく羨ましい。

 

私は映画が好きだ。ただ、好きだ。それだけなんだ。

君とその思いを共有できて、私は幸福だった。

できることなら、君と一緒に、いちばんお気に入りの映画館で、いちばん好きな映画を見たかった。

そうだ、バターをたっぷりかけたポップコーンをほおばりながら。

(文庫版P314:ローズ・バッド)

 

この一節を、私は電車の中で読んだ。失態だった。

帰宅ラッシュの満員電車の中で、私は涙をこらえられなかったのだ。無理矢理泣き止もうとして逆に嗚咽を漏らしてしまったほどだ。人前で泣いてしまった羞恥心を感じながら、それでも、涙を止めることができなかった。

 

悲しいとか切ないとか、決してそんな感情から泣いたのではない。上述したとおり、ただただ羨ましかった。そして、私もそんな相手が欲しいと思った。好きなものを、好きなことを、「ただ、好きだ」、という気持ちだけで語り合い共有することができる相手と出会いたいと思った。願わくば、このブログもそんな出会いの場のひとつになればいいなと思う。 

 

※ちなみに。『キネマの神様』に登場する映画については以下ご参照。

matome.naver.jp

 

※ちなみに。

『キネマの神様』に登場する映画館【テアトル銀幕】は恐らく飯田橋にある名画座【ギンレイホール】を模していると思われる。近くに住んでいるので、何回か行ったことがあるが、たまに行く名画座って、いわゆるシネコンと違って、また良いんだよなあ。名画座って何?名画座って一度行ってみたかったんだよね!って方は、以下ご参照。

飯田橋ギンレイホール

 

【小説感想】『ふがいない僕は空を見た』女性による女性のためのR-18(官能)小説

 

前職の話だが、「あー!ムラムラする!今絶対排卵期だわー」と突如叫び出す女性の先輩社員がいた。そうだ、女性だってムラムラするんだ。

とはいえ、「今夜SEXしようよ!」なんて気軽に誘える相手がいるわけでもないし、ひとりで行うのも、なんだか気がひける。じゃあ、このムラムラどうすればいいの!

なんて気持ちに陥っていた時に出会った本作。

 

ふがいない僕は空を見た

 

新潮社が主催する“ 女による女のためのR-18文学賞 ”を受賞した作品が含まれている一冊で、官能的な気分になれることを期待して購入した、が。

その期待は(良い意味で)見事に裏切られることになる。

もちろん、R-18を謳っているため、官能的な表現はふんだんに含まれている。ので、それを期待して購入するのも悪くはない。

 

おれの動きに合わせて、あんずが腰を回した。あんずがおれの顔に手を伸ばして、口の中にひとさし指を入れて、おれの口の中をかきまわした。あーんとあんずが子どもみたいな声をあげて、ペニスの先にかたいものが触れたとき、もう限界だった。頭のうしろのほうで細い光の線が一瞬見え、快感で鼻の下がむずむずした。

 

とは言え、この作品の魅力は官能的部分だけでは終わらない。むしろ後半は官能的表現はほとんどない。それでも惹きつけられる。理不尽でふがいない日常を必死に生きていく登場人物たちに惹きつけられるのだ。

ちなみに本作は、5つの連作短編で成り立っている。以下簡単に記述を。

 

5つのストーリー

ミクマリ

本作において中心人物となる男子高校生【斉藤卓巳】の視点から綴られたストーリー。友人に付き添って訪れたオタクのイベントで、不妊の専業主婦“あんず”と出会い、不倫関係に陥る卓巳。学校が終わると“あんず”のマンションを訪れ、セックスをする。“あんず”が用意したコスプレ衣装をまとい、“あんず”が用意した原稿通りのセックスを。

そんな関係が続いていた中、同級生に告白されたことによって一度は“あんず”に別れを告げる卓巳。だが、ショッピングセンターで“あんず”を見かけたことにより、“あんず”のことが頭から離れなくなり、再び家を訪れることに。

再会を果たしたふたりは、初めて、コスプレ衣装をまとうことなく、真の姿で、お互いを貪るように身体を重ねる。これまで感じることのなかった燃えるような感情、そして快楽。“あんず”への恋心を確信する卓巳だったが、行為を終えた後、「今までありがとね」と、今度は“あんず”から別れを告げられることに。そこで、ミクマリは幕を閉じる。

 

 「いやだいやだいやだいやだ行かないで行かないで行かないで。おれを置いていかないで」。ぶざまに駄々をこねることで、あんずが行かなくてもいいことになるんじゃないかと本気で思ったのだ。おれは子どもだから。あんずはそんなおれを一瞬だけ泣きそうな顔で見て、「もうおうちに帰らないとね」と、さっきよりももっと小さなかたい声で言った。

(出典:『ふがいない僕は空を見た』ミクマリ)

 

コスプレ衣装を纏っていた時のセックスと、衣装をまとわずに生身のまま行った最初で最後のセックス。 このふたつの対比が、見事だと思った。前半のセックスで漂っていた虚無感や脱力感は、最後のセックスには微塵も感じられない。

感じるのは、ふたりの激しい息づかいとぶつかり合う鼓動の音。ソファーが軋む振動。そして、身体を重ねることで感じる“ 性(生)に対するふたりの悦び”だ。思わず己の呼吸まで荒くなっていきそうになる。

だからこそ、その後の展開があまりにも残酷だった。はじめて感情をぶつけ合ったふたりを嘲笑うような、皮肉な展開。それまで高校生にしては落ち着いた印象だった卓巳が、子どものように駄々をこねるシーン(上記の引用)は生々しく、強烈な余韻として残った。

 

世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸

2編では、卓巳の不倫相手“あんず”こと【里美】の視点から物語が綴られている。ミクマリでは、単なるコスプレプレイを好む不倫相手“あんず”の姿でしか描かれていなかったが、世界ヲ覆フ蜘蛛ノ糸では、【里美】というひとりの女性の心の闇やその背景が露わになる。

世間や社会との不適合性。ただ生きていくために選んだ結婚。望まない妊娠。姑から強要される不妊治療。「離婚してください」という願いもかなわず、これからもずっと、弱すぎる夫と強すぎる姑との世界の中で生きていくのだろう。そんな世界の中で、コスプレ衣装をまとうことは現実逃避の手段、卓巳との最後のセックスは、里美にとっての唯一の心の支えになるのかもしれない。

 

2035年のオーガズム

3編では、卓巳に告白をした同級生【七菜】の視点から物語が綴られている。七菜自身の性に対する興味、卓巳への恋心、七菜の兄のこと(生まれながらに頭が良くT大に現役合格。大学在籍中にフリーセックスを推奨する宗教団体に入団し家出。戻ってきてからはずっとひきこもり)など、いくつかテーマはあったが、3編については七菜の母親の、子に対する強い思いしか印象に残っていない。

 

この家で絶対に死なせないわよ。パパが建てた家なのよ。優介と七菜を守るために、パパが死ぬ気で働いて建てたのよ。優介を死なせないわよ!絶対に私よりも死なせないから

 

どうしようもない宗教団体にハマり、帰ってきてからも部屋にひきこもりっぱなしの息子。自分の子供なのに、息子が何を考えているのか、きっと理解できなかっただろう。宇宙人とさえ思ったかもしれない。でも、死ぬことは許さない。決して。生きてさえくれればいい。そんな、親の子に対する執着というか、思いというか、そんなものが、嵐の夜に爆発した母親の言葉の数々から伝わってきた。

 

セイタカアワダチソウの空

4編では、卓巳の友人【福田】の視点から物語が綴られている。小さいときから団地で貧困生活を送ってきた福田。高校生になった今は、痴呆の祖母とふたりで暮らしている。周囲からは「団地の住人だ」「万引きが起これば団地のやつが犯人だ」と冷ややかな視線を向けられながら過ごしてきた。そんな福田に対して、アルバイト先の先輩【田岡】が、「おまえさ、進学のこと本気で考えな」と勉強を教えてくれるようになる。「今のおまえに何もないでしょ。おまえのステータス上げる大卒っていうアイテムくらい装備しておいてもいいんじゃないの」と。だが、そんな田岡自身、彼自身望まない事情を抱えていて・・・。

 

「そんな趣味、おれが望んだわけじゃないのに。

 余計なオプションつけるよな神さまって」

(田岡)

「どんな子どもも、自分を育ててくれる親や、

 自分の人生を選んで生まれてくるんですよ」

ぼくはぼくの人生を本当に自分で選んだか?

ぼくは小さく舌打ちをして、

いじわるな神さまがいるかもしれない空に向け、唾を吐いた。

(福田)

 

どうしようもない趣味を持つ。貧困家庭に生まれる。自分が好んで選んだわけではない。生まれたときから与えられた世界、運命なのだ。その運命は覆せるのだろうか。抗えるのだろうか。いや、従うしかないのだろうか。その運命に従いながらも、必死にもがき生きていくしかないのだろうか。私個人としては、3編が一番、本作のタイトル「ふがいない僕は空を見上げた」の「ふがいない」という言葉がしっくりくるなと感じた。

 

花粉・受粉

5編は、助産院を営み助産師として働く【卓巳の母】の視点から物語が綴られている。

里美とのセックス動画が世間にばらまかれ、ひきこもりになってしまった息子卓巳。己の息子が苦しんでいる姿を見守りながら、これから生まれてくる命と対峙し続ける。

 

今までにとりあげた子、とりあげられなかった子、私の手の中ですぐに亡くなってしまった子、これからとりあげる子たちのことを祈った。

「先生、私、絶対に自然に産めますよね」

ここにやってくるたくさんの産婦さんたちが口にする、自然という言葉を聞くたびに、私はたくさんの言葉を空気とともにのみこむ。自然に産む覚悟をすることは、自然淘汰されてしまう命の存在をも認めることだ。彼女たちが抱く、自然という言葉のイメージ。オーガニックコットンのような、ふわふわでやわらかく、はかないもの。それも間違ってはいないのだろうけれど、自然分娩でも、高度な医療機器に囲まれていても、お産には、温かい肉が裂け、熱い血が噴き出すような出来事もある。時には、母親や子どもも命を落とす。どんなに医療技術が発達したって、昔も今もお産が命がけであることは変わらないのだ。

この窓からの風景が一瞬で消えるようなことが起こっても、私はこの世界に生まれてこようとする赤んぼうを助けるだろう。だから、生まれておいで。

 

5編では、助産院という命の現場を通して、新しい命が無事にこの世に生まれてくること自体の奇跡、そして1から4編で描かれたどうしようもない世界をこれから生きていくことになる新しい命に対する、作者の祈りが込められているように感じた。

 

どんな世界でだって、生きていく

 

読後の感想として、重松清さんの書評が一番しっくり来たので一部引用。

 

「作品と作者の美点はいくつもあるのだが、なにより惹かれたのは、どうしようもなさをそれぞれに抱えた登場人物一人ひとりへの作者のまなざしだった。救いはしない。かばうわけでもない。彼らや彼女たちを、ただ、認める。」「ただ生きて、ただここに在る――「ただ」の愚かしさと愛おしさとを作者は等分に見つめ、まるごと肯定する。その覚悟に満ちたまなざしの深さと強さに、それこそ、ただただ圧倒されたのである。 

 

本作で描かれていた5つの世界。決して非現実的な世界ではない。誰かにとって、どうしようもない世界が、今まさに日常としてあるかもしれない。どう足掻いても、どう抗っても、覆すことができない日常が。それでも私たちは、生きていくんだ。生き延びるんだ。「命って大切!」なんて綺麗ごとを言うつもりはない。私たちの目の前にある日常を生きていく。

ただ、それだけだ。

 

 

ふがいない僕は空を見た (新潮文庫)

ふがいない僕は空を見た (新潮文庫)

 

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ふがいない僕は空を見た
 

 

 

【小説】『伊坂幸太郎』全作品、一挙紹介してみた(パート2)

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 前回に続きパート2です。パート1はこちら。

tekuteku014.hatenadiary.com

 今回は『アヒルと鴨のコインロッカー』『チルドレン』『サブマリン』『グラスホッパー』の4作品を紹介します。出版順に書いていこうと思っていましたが、続き物がある作品は一緒に書いた方がわかりやすいか!と思い、路線変更してます。笑

ここのラインナップが実は一番好きかもしれない。大好きな作品が続くので、思いのままに書きます。

 

伊坂幸太郎作品、一挙紹介(パート2)

アヒルと鴨のコインロッカー

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

 

 あらすじ

引っ越してきたアパートで出会ったのは、悪魔めいた印象の長身の青年。初対面だというのに、彼はいきなり「一緒に本屋を襲わないか」と持ちかけてきた。彼の標的は――たった1冊の広辞苑!? そんなおかしな話に乗る気などなかったのに、なぜか僕は決行の夜、モデルガンを手に書店の裏口に立ってしまったのだ! 清冽な余韻を残す傑作ミステリ。第25回吉川英治文学新人賞受賞。

この作品は、何の先入観もなしに、頭の中で配役を立てて読み進めてほしい。きっと途中で、自分の立てた配役に違和感を覚えるはずです。「あれ、この配役合わないかも」と。その違和感こそ、伊坂マジックに陥っている証拠です。そして最後に、その違和感の正体を知るんです。「やられた!」と。満足気に笑みを浮かべながら、膝を打っている自分がいるんです。

印象に残ったシーン

河崎は照れ臭そうに唇を曲げて、それからこう言った。

「神様を閉じ込めに行かないか?」

はじめて会った時と、まったく同じ印象を受けた。

あ、これは悪魔の言葉に違いないな、と思ったというわけだ。

「神様を閉じ込めに行かないか」なんともお洒落な言葉だ。伊坂さんの作品には節々にお洒落な言葉が隠れているように思う。

切なくもあたたかな嘘と真実。桜の花びらが目の前を舞っていくような、それをぼんやりと眺めているような、そんな優しい気持ちになれる一冊です。

おすすめポイント

・途中覚える“違和感”からの、巧妙な種明かし

・なんとなく懐かしい気持ちになる作品

ボブ・ディランの曲をBGMに流しながらどうぞ

 

チルドレン

チルドレン (講談社文庫)

チルドレン (講談社文庫)

 

あらすじ

俺たちは奇跡を起こすんだ」独自の正義感を持ち、いつも周囲を自分のペースに引き込むが、なぜか憎めない男、陣内。彼を中心にして起こる不思議な事件の数々――。何気ない日常に起こった5つの物語が、1つになったとき、予想もしない奇跡が降り注ぐ。ちょっとファニーで、心温まる連作短編の傑作。(引用:amazon 

どこに行けば陣内と出会えるのだろうか。ついつい現実世界に彼の存在を求めてしまう。

陣内のような人が近くにいたら、私は仲良くなれるだろうか。遠巻きに見てしまうだろうか。怪訝そうな顔を浮かべて、遠ざけてしまうだろうか。

そうじゃなければいいな、と思う。彼のペースに巻き込まれてしまいたい、と願ってしまう。きっと毎日が刺激的で愉快になるだろうし、退屈してる暇なんてなくなると思うんです。

印象に残ったシーン

「世の中に『絶対』と断言できることは何ひとつないって、うちの大学教授が言ってたけど」わたしはとりあえず、識者の言葉で説得を試みた。

「『絶対』と言い切れることがひとつもないなんて、生きている意味がないだろ」 

 デタラメなことを言っていても、陣内が言うとなんだか納得してしまうんですよね。例えば、つぶ餡とこし餡の二種類があったとして、陣内の場合は「潰せばこし餡になるんだから、一石二鳥だよなあ」と、迷わずつぶ餡を選ぶ。

めちゃくちゃだ!屁理屈だ!と思いながらも、心の内では「な、なるほど」と感心してしまう。そんな不思議な力(?)をもった人物が登場する一冊です。

おすすめポイント

・陣内。とにもかくにも、陣内。

・ クスリと笑えて、読後、前向きな気分になれる

 

 サブマリン

サブマリン

サブマリン

 

 あらすじ

家裁調査官である陣内と武藤の腐れ縁コンビは、無免許運転のあげく歩行者をはねて死なせた少年・棚岡佑真の面談に当たっていたが、彼はなかなか話に応じない。棚岡は自らも交通事故で両親を失っており、やがてその後も交通事故に巻き込まれ友人を失っていたことが判明する。その加害者の少年を、陣内が担当していたことも。いっぽう武藤は、ネット上で暗躍する脅迫文投稿者に脅迫状を送り付けたあげく自首した少年・小山田俊の試験観察も担当していたが、ある日俊がネットの殺人予告者が犯行に移そうとしていると伝えてくる。物語は棚岡と小山田というふたりの加害者少年を軸にまず動いていくが、読みどころはやはり陣内の相変わらずの変人ぶり。武藤にいわせれば、「自信満々で何でもできるような態度で、はた迷惑な人」だが、実は棚岡の事件とは深い関わりがあり、そこから意外な一面も浮かび上がってくる。(引用:amazon

上述『チルドレン』の続編として、12年の時を経て出版された本作。前作が一話完結型の連作短編集だったのに対して、本作は、“少年が起こした交通事故”を題材とした長編小説になっています。

本作については、伊坂さんのインタビュー記事が印象的だったので一部転載します。

たとえば、交通事故って、本当にやりきれないものですよね。何の罪もない人が突然命を奪われる。実際の事故の報道に接したりすると、僕自身、そこに加害者に対しての怒りしか覚えないですし、やりきれない。

でも逆に、その加害者には重い持病がありました、と聞けば、僕はすぐに、ああそうだったんだそんな事情もあったんだ、って加害者に同情する気持ちを持ってしまう。

でもまた逆に、持病があったにもかかわらず加害者は病院に通っていなかったと報じられると、なんなんだよふざけるなよ、ってまた怒りがわいてくる。

揺れ動いちゃうんですよ。被害者はもちろん被害者のままですけど、いったい誰を責めたらいいのか分からなくて。

だから、そういうことを、嫌だけど、書く。そういう結末がはっきりしないものを、書いてみよう、と決めたんですよね。

 (引用:【インタビュー】伊坂幸太郎、12年ぶり“復活”の本音|講談社BOOK倶楽部

善か悪か。是か非か。白か黒か。

「真実はいつもひとつ!」なんて某漫画の主人公は言うけれど、その真実に向けられる世論や感情、その真実の裏にある背景や事情は、決して一括りにはできやしないのだと、本作を読んでいて思いました。

世の中の物事の大半は、曖昧模糊なのだと。

印象に残ったシーン

目の前にいる子供が、もし将来、ヒトラーになるのだとすれば、殺害するのは良いことなのか悪いことなのか。

良いこととは言い難いにしても、それは許される部分があってもいいのではないか。

やるせないことだらけの中で、陣内という存在自体が、 ひとつの希望のように思えてくる。こんな大人がいるのであれば、世の中捨てたもんじゃないかもなって。そんな風に一筋の希望を感じながら読むことができる一冊です。

おすすめポイント

・今回もやっぱり陣内。なんてたって陣内。

伊坂幸太郎作品の中では題材がリアルな為、日頃感じている理不尽さや、やるせなさ、もやもやとした感情を照らし合わせながら読むことができる。

 

グラスホッパー

グラスホッパー (角川文庫)

グラスホッパー (角川文庫)

 

あらすじ

元教師の鈴木は、妻を殺した男が車に轢かれる瞬間を目撃する。どうやら「押し屋」と呼ばれる殺し屋の仕業らしい。復讐を横取りされた。

鈴木は正体を探るため、「押し屋」と呼ばれる彼の後を追う。

一方、自殺専門の殺し屋「鯨」、ナイフ使いの殺し屋「蝉」も「押し屋」を追い始める。
それぞれの思惑のもとに――「鈴木」「鯨」「蝉」、三人の思いが交錯するとき、物語は唸りをあげて動き出す。
疾走感溢れる筆致で綴られた、分類不能の「殺し屋」小説!(引用:amazon 

なにげにハードボイルド好きな私。したがって、本作の設定は、読む前から胸踊るものがありました。単なる殺し屋ではなく、なんと特徴のある殺し屋たちなのか!と。

そして、この作品は、様々な憶測がある作品ですよね。どこからどこまでが現実でどこからどこまでが幻なのか、と。

私個人としては、この作品に出てくる殺し屋ふたりは「鈴木」の幻影だと思っています。「鯨」を無意識のうちに苦めている罪悪感は、表社会から裏社会に飛び込んで、何の罪もない人にドラッグを仕向けてきた鈴木の罪悪感に重なりますし。(実際に自分の手で渡しているわけではないが結果として薬漬けの人を作り出している=鯨の自殺を促すという殺し手段に似ている)「蝉」が感じている雇用主からの呪縛も裏社会に飛び込んでからの「鈴木」の状況を映している。そんな風に考えられるな、と。(あくまで私個人の意見です)

 印象に残ったシーン

「今、この国では一年間に何千人もの人間が、交通事故で死んでいる」

「らしいですね」

「それなのに、車に乗るのはやめよう、とは誰も言い出さない。面白いものだ。結局、人の命なんて二の次なんだ。大事なのは、利便性だ。命より利便性だ」

ドストエフスキーの「罪と罰」がひとつのキーワードになる本作。読み込むほどに、いろいろな憶測や思考が頭を飛び交うでしょう。そして読み終えた後、誰かと討論を交わしたくなる一冊です。

おすすめポイント

・THEエンターテインメント、奇抜な設定に酔いしれる

・読みこむほどに、読み方が変わる不思議な作品

 

ということで、第2弾終了!次回は『死神の精度』からご紹介します。それにしても、1回につき4作品ずつだと時間かかるなあ。。。今月中には全て紹介し終えて、まとめ記事作りたいな。

 

以上!